北里と対立する東京帝大も香港への医師団派遣を決定

一方、文部省の井上こわし大臣は帝大医科の小金井良精学長の意見を聞き、青山胤通たねみち教授の派遣を決定する。コッホ研究所への人員派遣、伝研設立に続いて、ここでまたしても文部省と内務省の確執が噴出した。かくして5月28日、41歳の伝研技師・北里柴三郎と35歳の帝大教授・青山胤通の両名に、全く同じ文言の調査命令が出された。

青山胤通(東京帝国大学医科大学長)、1932年(画像=『東京帝国大学五十年史 下冊』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

日く「香港二おいテ流行スル伝染病調査ノ為派遣被仰付」

北里は石神亨と細菌学を、青山は助手の宮本しゅくと医学生の木下正中と病理解剖と臨床を分担し、明治政府初の海外派遣調査隊は伝研と帝大の呉越同舟になった。

6月3日、帝国ホテルで盛大な壮行会が行なわれ、福沢諭吉・慶応義塾大学塾長、陸奥宗光外相、浜尾新・帝大総長、小金井良精・帝大医科大学長、高木兼寛・海軍軍医総監、森林太郎(森鷗外)陸軍軍医、山根正次警察医長等の名士300名が参集した。

ペストは致死率の高い病気だったので、決死の覚悟だった。青山は出発にあたり妻に、生還せずとも業務はやり遂げるので心配するな、という言葉を残した。

帝大の青山教授らと文字通り呉越同舟で香港に到着

6月5日、米国船「リオデジャネイロ」号で横浜港を出発した同日、伊藤内閣は「東学党の乱」が勃発した朝鮮に混成旅団の派兵を決定、大本営を設置した。

香港ペスト調査団の派遣が迅速に決定したのは、朝鮮半島における日本の覇権を示す、国威発揚の示威運動という一面もあった。

出発1週間後の6月12日香港に到着し、入港直前の午前9時、調査団のトップ二人が甲板で顔を合わせた。二人ともひどい船酔いで、船室に閉じこもっていたのだ。

「ここから先は人類の敵、黒死病との戦いたい」という北里に「それはこちらの台詞だ」と言い返した青山の視線は、目の前の黒い病魔に侵された大陸に注がれていた。

調査隊派遣期間は6月12日から6月28日までの2週間だった。あまりにも期間が短く、成果を挙げられるかどうか、わからなかった。

到着翌日に早速、香港領事の中川恒次郎に案内され市街を視察した。

ペストの猛威は凄まじく、スラム街の大平山街近辺では毎日70名新規患者が発生し、路上に行き倒れの死体が放置されていた。

一行は香港植民地政庁の英医ラウソンの協力で、病院船ハイジア号、公立民事病院、東華病院を見学し警察署、硝子工場を改築した「ケネディ・タウン病院」を選んだ。

6月14日、北里が荷を解いて顕微鏡をテーブルに据えた時、解剖第一例の死体が運び込まれた。現地人は解剖を極度に嫌うため、青山は遺体置場の隣の物置で棺桶の蓋を台にして解剖した。一人が解剖助手を務め他方が記録を取りつつ窓の外を監視し、通行人が通ると窓を閉めた。