あまりに無慈悲な仕打ち

ところが、死後の秀次には、悲惨ともいえる措置が取られた。秀次の配下の者たちの遺骸は、そのまま青厳寺(金剛峰寺。和歌山県高野町)に葬られたが、秀次の首は三条河原に送られたのである。これまで後継者として処遇された秀次に対して、あまりにひどい仕打ちといえる。そして、秀次が切腹に追い込まれたことは、さらに家族へと累が及んだのである。

同年8月2日、秀次の妻子が処刑された。その方法なりを見る限り、秀吉の残虐性を再確認することができる。当日の朝、石田三成ら秀吉配下の武将が3千人の兵を率い、京都の三条河原へやってきた。

渡邊大門『戦国大名の家中抗争』(星海社新書)

四方に堀を掘って鹿垣を築くと、秀次の首を西向きに据え置き、その妻子たちに拝ませたのである。これまで秀次の妻子として、彼女らは何不自由ない生活を送っていたであろう。しかし、秀次が罪人として処分されたことにより、非情ともいうべき過酷な運命が待ち構えていたのである。

秀次の妻の数は諸書によって異なるが、おおむね20人から30人であったと考えられる。息女に至っては、まだ13歳の少女であった。その処刑シーンは書くことが憚られるほどの惨状であり、見る者が目を背ける光景であった。

まさしく合戦における秀吉の残虐性が再現されたが、処刑に立ち会った石田三成らは、嘆き悲しむ素振りすら見せなかったと伝わっている。

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