なぜ秀次は失脚したのか

天正19年(1591)12月、関白職は養子の秀次に譲られ、豊臣家が世襲するところとなった。この様子を見た摂関家の人々は、大変落胆したことであろう。秀吉が関白に就任した際に交わした約束どおり、五摂家に譲ることが反故にされたからである。逆に言えば、秀次に明るい未来が開けたことになる。

このように順風満帆であった秀次の先行きには、やがて暗雲が立ち込めることになった。秀吉と淀殿との間に秀頼が誕生したからである。秀頼に関しては実子・非実子説があるものの、秀吉と淀殿が目に入れても痛くないほどかわいがったのは事実である。秀吉が実子を後継者に据えたいというのは、ごく自然な話である。

そして、事件が勃発したのである(以下『甫庵太閤記』など)。文禄4年(1595)7月3日、石田三成ら5人の奉行が聚楽第の秀次のもとを訪れ、高野山(和歌山県高野町)へ行くように命じた。秀吉は秀次に対して、謀反の嫌疑をかけたのである。

理由はさまざまなことが指摘されているが、秀吉に実子である秀頼が誕生したため、不要になったという説がよく知られている。この他にも秀次が酒色に溺れ、殺生を繰り返したとの説もある。また、曲がりなりにも秀次は関白の職にあったので、養父である秀吉と異なる政治的志向があったのかもしれない。そのことが、秀吉の癇に障った可能性もある。

豊臣秀次像(部分)(写真=瑞雲寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

天下人は2人もいらない

秀吉は関白の職を秀次に譲ったとはいえ、決して引退したわけではなかった。秀吉は太閤として君臨していただけでなく、現役の太政大臣でもあり、秀次をはるかに凌駕する政治権力を保持していた。つまり、豊臣政権下では天下人が2人も存在するような事態になり、秀吉と秀次が下す政治的判断が異なることもあった。

文禄4年(1595)に蒲生氏郷が亡くなると、子の秀行が跡を継いだ。しかし、遺領を引き継ぐ際に、秀吉と秀次の判断が分かれた。これは一つの例であるが、こうしたことが重なったとすれば、秀吉と秀次との間に確執が生じるのは当然である。それは、先述した武田氏、徳川氏と似通っている。

秀吉からすれば、いかに秀次を後継者候補に据えたとはいえ、政治路線が一致しない以上は、何らかの対処をせねばならなかったということになろう。その結果、秀次は自害を求められたのである。

かつて、秀次は秀吉に命じられて自害したのではなく、自らの無実を訴えるため自害に及んだという説が提示されたが、現在では否定されている。その5日後、秀次は釈明をするために伏見の秀吉のもとを訪問したが、ついに面会は叶うことがなかった。

そして、同日の8日には、高野山へ向かったのである。同年7月15日、福島正則が高野山に蟄居する秀次のもとを訪れ、秀吉から自害の命が下ったことを知らせた。秀次以下、疑いをかけられた小姓などは、高野山で自害させられたのである。