知られざる秀次の功績

天正12年(1584)9月、秀吉は秀次に対して訓戒状を与えた(「松雲公採集遺編類纂」)。その趣旨とは「秀吉の甥である覚悟を持つこと」などを記している。養子の秀勝(織田信長の四男)が病弱であるがゆえに、秀次に代理ともいうべき地位を与えたのである。

秀次は合戦で失態を演じたにもかかわらず、秀吉は大きな期待をかけていた。おそらく、この頃には「秀次」という名乗りと羽柴姓を与えたと推測される。以後における秀次の活躍ぶりは目覚しいものであり、秀吉の叱咤激励が功を奏したと考えられる。

その軍功は、以下に示すとおりである。

1.天正13年(1585)紀州雑賀攻め、四国征伐の軍功により、近江国蒲生郡八幡(滋賀県近江八幡市)などに43万石を与えられる。従三位権中納言になる。
2.天正18年(1590)小田原合戦に出陣。尾張国、伊勢国北部を与えられる。
3.天正19年(1591)正二位左大臣に就任。

秀次は秀吉にとって貴重な身内だったので、軍功を挙げれば相応に処遇することができた。何より出自の賤しい秀吉にとっては、実に頼もしい存在であった。

実質的な権力は、秀吉が掌握していたものの、秀次はその後継者として着々と栄光の道を歩んだのである。そして、秀次にも婚姻という節目が訪れることになった。

小田原征伐のために作られた石垣山一夜城から望む小田原城(写真=Mocchy/PD-self/Wikimedia Commons

政略結婚が行われた背景

秀吉とその類縁は出自が貧しかったが、栄達を遂げたこともあり、秀次にはふさわしい結婚相手が求められた。秀次が正室として迎えた相手は、一の台と呼ばれる女性であった。

一の台は公家の菊亭晴季の娘であり、晴季は最後には右大臣にまで昇進した人物である。『菊亭家譜』によると、晴季の長女として一の台が誕生していることを確認できるが、単に「女子」と記載されているのみで、実名がわかっていない。女性特有の史料の限界が認められる。

なぜ秀次は、一の台を妻として迎えたのであろうか。その辺りは、養父である秀吉の思惑が絡んでいた。天正13年(1585)、関白相論(二条昭実と近衛信輔の関白の座をめぐる争い)を契機として、秀吉と深いつながりを持ったのが菊亭晴季であった。朝廷・公家への対策という点において、秀吉は晴季を重用することになる。

となると、両者はその関係をより強固なものにする必要があった。その一つの方法こそが、結婚を介したものだったのである。

秀次と一の台が結婚した時期は、明らかにされていないが、秀吉が関白に就任する前後の天正13・14年(1585・1586)頃が有力視されている。

先に触れたとおり、秀吉が対朝廷・公家の対策で晴季の協力を得るため、秀次と一の台の婚姻を推し進めたと考えてよい。いうまでもなく、政略結婚の一環であった。