隣国・越後の上杉謙信は織田信長と天下を争っていた

翌年12月、能登七尾城の畠山重臣である遊佐ゆさ盛光もりみつ温井ぬくい景隆かげたかたちは越後の大名・上杉謙信に、加賀の一向一揆と戦うため、「御出馬」を要請した(『歴代古案』)。

ちょうど謙信は長年の宿敵だった甲斐武田家と和睦を進めており、その主戦場を北陸に移そうとしていた。謙信の狙いは、天下人・織田信長との対決である。

信長は美濃・尾張・近江から畿内ばかりでなく、中国と北陸の両方面に勢力を拡大しつつあった。

対決準備を進めるには、信長よりも先んじて北陸を制覇しておく必要があった。

なぜ謙信は信長と天下を争うことを考えたのだろうか。

両者の関係を過去から整理してみよう。

もともと織田信長と上杉謙信は、2点の理由から良好な協力関係にあった。

ひとつは武田対策である。甲斐・信濃両国を領する武田信玄・勝頼は、領土欲も旺盛で、国境を接する信長と謙信の2人からみて、警戒を要する大名であった。武田対策が2人を連携関係へと導いた。

もうひとつは、足利義昭と幕府の支援である。

信長は義昭を将軍に就任させ、足利幕府を復興させた。だが、信玄の策略で、義昭は信長を裏切った。謙信は信長との同盟強化をしたばかりで、信玄との対決姿勢を強めていたため、義昭の側には付かなかった。

やがて信玄が亡くなり、義昭は京都を追放されてしまう。

乃至政彦『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)などより編集部作成

上杉謙信と信長は、甲斐武田家対策で協力関係にあったが……

謙信と信長は、信玄の跡を継いだ武田勝頼を挟撃しようと話し合って作戦を進めたが、タイミングが合わず、思うような展開を作れなかった。

しかも天正2年(1574)3月、諸国を放浪する義昭が謙信に、「武田勝頼、上杉謙信、大坂本願寺の顕如が妥協して和平を結び、今より幕府秩序を再興するようお願いしたい。もし三者が和して上洛してくれたら諸国は謙信の覚悟に任せたい」と打診してきた(『古状書写』)。

義昭は、三河の徳川家康にも「信長ともめごとが重なってしまい、やむなく京都を退去した。今より勝頼と和睦して天下静謐へのご尽力をお願いしたい」と要請している(『別本史林証文』)。

将軍から直接頼まれたら、さすがに無視することはできない。信長と謙信を結びつけていたふたつの理由がここに失われ、以後、謙信は武田・北条・本願寺との和睦を模索し、本格的に北陸侵攻に着手して、信長との対決準備を整えていくのであった。