長官なんて全く面白くない立場

――いわゆる「現場」と、「霞が関」といわれる本庁勤めとで、最も違うことは何ですか。

【奥島】決定的に違うのは、現場は第一に目の前で起こっている事案に対処しなければならない一方、長官を含む霞が関に詰めている職員は、ことが起きた時には現場のことは彼らに任せる以外にない点です。

いざという時、現場がどうすれば動きやすくなるのか、何が必要なのかを前もって予測し、対処方針を決め、勢力を整え、予算を獲得することが任務になる。いわば「政策的判断」をするのが長官を含む霞が関の役割です。

海上保安庁が入居している中央合同庁舎第3号(画像=Rs1421/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

私の性格からすると、長官なんて全く面白くない立場なんだけど(笑)。特に、霞が関の中でも現場に直接指示を出せるのは警備救難部長までなんです。

それより上には長官、次長、海上保安監がいるのですが、現場に指示を出すオペレーションルームはまさに「警備救難部長の城」。長官といえども好き勝手にふるまうわけにはいきません。

もちろん、時には口を出したくなる時もあるんだけれど、それは絶対にやっちゃいけない。私も警備救難部長を経験していますが、皆が口を開けば「船頭多くして船山に上る」になりかねません。長官は冷静に見守って、イザというときに助け舟を出す。そのくらいがちょうどいいんだと思っていました。

撮影=プレジデントオンライン編集部
元海上保安庁長官の奥島さんは「この40年間で『Safety』から『Security』の仕事が増えた」と話す

工作船事件で痛感した「日本の海の現実」

――海上保安官として海に出られるようになってから、長官として退官されるまで40年。この間の日本の海をめぐる情勢はどのように変化しましたか。

【奥島】「Safety」から「Security」の仕事が増えたような気がします。

海難事故で印象深いのは、私が初めて記者会見に臨んだ1996年の小樽沖での沖合底引き網漁船同士の衝突事故。5名の死亡者が出たので、全国紙一面トップで報じられました。また退官間際に発生した26名が死亡・行方不明となった知床観光船の事故(2022年)も忘れられないものになっています。

一方、警備関係業務では1999年には能登沖、2001年には九州南西海域で工作船事件が起きました。

能登沖の時、私は長官秘書でしたが、工作船を逃がしてしまいました。「次こそは」と思っていた時に、警備救難部警備課課長補佐として九州南西海域での工作船事件に対処することになりました。銃撃戦ののちに不審船は自爆して沈没。その後、不審船は引き上げられ、横浜の海上防災基地に展示されています。

工作船事件では、相手がロケットランチャーや地対空ミサイルまで積んでいたことがわかり、「日本の海は実はこんなに危ないんだ」と実感するに至りました。もちろん知識としては持っていたのですが、日本の安全保障環境は実は脆いものなんだと改めて現実を突き付けられた経験でもありました。