「日本人は大切なものを見失ってしまったのではないか」

たとえば、孤独死や過労死は、家族や余暇を大切にするイランではまず考えられないことだ。彼らは言う。「日本人は仕事に打ち込むあまり、何か人間にとって大切なものを見失ってしまったのではないか」と。まったくその通りだと私も思う。

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また、イラン人はポルノなどを含む日本の性風俗産業が活況を呈しすぎていることにも、眉をひそめている。イランのように一律に禁止するのもよくないが、日本の場合はむしろ規制したほうがいいレベルだ、と彼らは指摘する。

そして、性産業の隆盛が日本人の抱える孤独や家庭軽視といった社会問題と無関係でないことも、イラン人たちはすでに見抜いている。

では、このような社会問題が日本でだけ見られて、イランにはない、その根本的な理由は何なのか。かつて、私の友人で大学教授でもあるバーラム(仮名)さんが、こんな面白い話をしてくれたことがある。

「日本人を含む、東アジア人の物の見方は概して実利主義的です。だから、ある物を手にすると、それをどう使い、どう売るかということを考えるのが得意です。当然、国の経済も発展します。一方、イラン人の物の見方は、精神主義的ということができるでしょう。物を使うことよりも、それを愛でながら、もの思いに耽ったりすることを好むのです。ですから、商売にはあまり向いていないタイプの人間かもしれませんね」

中世の詩にうたわれた東アジア人の特徴

そう言って笑ったバーラムさんは、13世紀より伝わる詩の一節を引用してみせた。

目の細き人たちは果物を見ん/われらが果樹園を眺むるときに
(サアディー『ガザル集』)

「目の細き人」というのは東アジア人のことで、「われら」は言うまでもなくイラン人である。つまり、東アジア人は果樹園に来ると、まず果物に目が行くが、イラン人は果樹園ののどかな風景そのものを楽しむというわけである(解釈には諸説あり)。

一三世紀の段階で、すでにそんな「東アジア人観」がイラン人のうちにあったことも驚きだが、詩人サアディーの指摘は当たらずといえども遠からず、だろう。

たしかに、日本人のなかには、仕事一辺倒となり、ふと立ち止まって一息つくことすら忘れてしまうような人が多い。果物ばかりに目を奪われてしまうのだ。

一方、少しズームアウトして果樹園全体を見ているイラン人は、家族や友人、そして心の平安があってこその仕事だということを知っている。だから、仕事の効率自体は悪いかもしれないが、一人でストレスをため込むこともない(実際のイラン人は食いしん坊で、とくに果物に目がないことは付け加えておく)。

バーラムさんは、自虐のつもりでこの話をしてくれたらしかったが、私にはむしろひそかな優越感のようなものが感じられた。