「イランに詳しい=悪印象」という悲しい現状

一方、国際情勢に関心があって、ある程度イランのことを知っている日本人は、たいていイランに悪い印象を持っている。イランに関する日本での報道が、イラン人不法滞在者の犯罪や、イラン当局によるテロ支援、米国との対立、あるいは反体制デモなど、“暗い”ニュースばかりに偏っているからだ。

こうしたことから、イラン人のなかには、「イラン」という言葉を避けて、自らを「ペルシア人」と紹介する人もいる。「ペルシア」ならば、日本人はまず「ペルシア絨毯」や「ペルシア猫」などを連想するので、いくらか親しみをもってもらえるだろうというわけだ。

だが、「ペルシア」は現在、正式な国名としては使われていない。

ちょうど、日本人が外国人を前に「ヤマトの国から来ました」などと言えば嘘くさくなるのと同じで、やはり「ペルシア人」ではどこか居心地の悪さが残るのだという。

私は日本人に、自らの無知と無関心が、この国に暮らすイラン人にどんな煩悶を強いているか気づいてほしいと切実に思う。しかも、そんな彼らは世界に類を見ない大の親日家なのである。イラン人と日本人の互いの国に対するこの温度差は、ほとんど悲劇といってよい。

そもそも日本の外交には期待していない

一方、イラン人のなかには、日本に対する好意的な感情は持ちつつも、手放しの称賛を控え、批判的な目で日本を見ている人も少なくない。イラン人をしばしば失望させてきたのが、日本の外交だ。「米国に決して逆らえない日本に、独自の外交は期待できない」。これは、イラン人にとってもはや常識となっている。

2019年6月の安倍首相(当時)のイラン訪問は、たしかにメディアや国民に歓迎された。ただし、歓迎されることと成果を期待されることは別である。イラン人は、日本人がイランへやって来れば、それだけで飛び上がるほど嬉しいのである。

トランプの使者としてイラン入りした安倍の提案は案の定、ハメネイに一蹴され、会談当日にはホルムズ海峡で日本のタンカーが攻撃されるというとどめまで刺されて、安倍はほうほうの体でイランを後にした。しかし、イラン人のあいだから落胆の声はほとんど聞かれなかった。そもそも成果を期待していなかったからである。彼らは、イスラム体制が米国の“使い走り”の言い分に耳を貸すはずがないことくらい、はじめからわかっていた。

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イラン人は今、日本の社会や文化も、実は想像していたほど健全なものではなく、多くの弊害を抱えていることに気づきはじめている。