家康の仲介で三成は救われ、家康の次男に護衛された
さて、七将の動きを察知した三成は、これまではよく、家康の屋敷に逃れたとされてきました。しかし、近年ではそうではなく、伏見城内にある自分の屋敷(治部少輔曲輪)に避難したとされます。七将は、三成を追い詰めますが、それ以上の行動はできず、三成の屋敷を遠巻きに包囲するのみ。一方、三成は伏見にいた毛利輝元や上杉景勝と連携し、事態の打開を図ります。
だが、最終的に、三成と七将の仲を仲介・調停したのは、徳川家康でした。三成の盟友である安国寺恵瓊(毛利氏の使僧)が主君・毛利輝元に「家康に両者の仲裁をしてほしいと頼んでください」と懇願。輝元が家康に要請し、それを受けて、家康が動いたというのです。家康の調停策は次のようなものでした。三成は居城の佐和山城(滋賀県彦根市)で隠居すること。三成は隠居するから、七将は矛を収めよというのです(また黒田長政や蜂須賀家政の名誉回復も行われました)。
このとき、三成は子息・重家を人質として、家康のもとに送りました。三成は、閏3月10日に佐和山に去りますが、それを結城秀康(家康の次男。越前松平氏の祖)が警護しています。途中で、何者かが三成を襲撃してきたら大変ということで、護衛を付けたのです。三成を無事に佐和山まで送り届けた秀康。感謝の印として、三成から「正宗」の太刀を与えられています(この「石田正宗」の太刀は、現在は東京国立博物館が所蔵しています)。
家康と三成は決定的に対立していたわけでない
それはさておき、家康は「三成襲撃」という七将の行動を黙認することはできませんでした。黙認すれば、秩序は乱れ、場合によっては、家康の「豊臣重臣」としての指導力が低下してしまう恐れがあるからです。それを避けるためには、七将の「暴挙」を抑制し、三成を中央政界から追放して、衝突を緩和させるしかありません。
しかし、その後、家康は三成の兄・石田正澄の大坂屋敷や、三成の屋敷に宿泊したりしています(1599年9月)。こうしたことを見れば、家康と三成の仲は、決定的に悪化・対立しているようには見えません。本当に仲が悪ければ、好き好んで、その人の屋敷に宿泊するようなことはないでしょう。もちろん、仲良しこよしというわけではなかったでしょうが、関係は決裂していなかったと言えましょう。