母親と祖母
母親は離婚前、父親にはもちろん、小倉さんと妹にも何も言わず、夜逃げのような形で実家に帰った。3月半ばのことだったため、小倉さんは小学校1年生の終わり、妹は幼稚園の年長で卒園間近。小倉さんは「あと数日、私の学年終了と妹の卒園まで待てなかったのか。せめて友だちにさようならくらい言わせてほしかった」と思った。だが一方で、「一人になった母を私が支えなくては」という思いもあり、料理などの家事を積極的に手伝った。
母親の実家は祖母が一人で暮らしていた。母方の祖父は働かずにお酒を飲んでは暴れる人だったらしく、母親が高校生くらいの頃に離婚している。離婚後、祖母はよろずやのような小さな売店を始め、長女だった母親と次女が2人とも結婚して家を出るまで、一人で育て上げた。
小倉さんたちが身を寄せてきたとき50代後半だった祖母は、まだよろずやをやっていた。
祖母と母親の仲は良くなかった。基本的に祖母は店があり、母親は実家に帰ってきてから保健師の仕事に就き、2人ともあまり家にいなかったが、母親が小倉さんたちに暴力を振るったときや、母親が祖母に渡す食費などが少ないときなど、たびたび揉めていた。
「祖母には事実婚状態の夫がおり、私と妹は『おじちゃん』と呼んでいて、よく遊びに連れて行ってもらいました。でも母は事実婚相手のことも、実の祖父のことも嫌っていて、祖母に対して見下したような発言が多かったです。『私は母親に放っておかれた。私はあの人のような子育てはしない』と口癖のように言っていました」
身勝手な母親
プライドの高い母親が父親からの養育費を突っぱねた結果、小倉家は困窮していた。小学校で必要な備品は、母親が百円均一ショップなどで探してきた安物ばかり。同級生にはからかわれたり、腫れ物に触るような扱いをされたりして、恥ずかしい思いをした。
「両親の離婚には納得していますが、前触れなく環境を変えられたこと、父親の交流を強制断絶させられたことについては今も『母の勝手だった』と思っています。父と面会するかどうかは、ちゃんと自分で選びたかったです。父に会いたいからではなく、自分の中できちんと整理をつけるために……」
母親は離婚後、自分に交際相手ができるたびに小倉さんと妹に会わせた。その度に小倉さんは、「この人が新しいお父さんになるのか」と受け入れ、懐こうと努力した。しかし、ようやく懐いた頃には母親はその相手と別れている……ということが繰り返された。
「母はのちに、『再婚するなら娘たちに懐いてもらいたい』という私たちへの配慮だったと言っていました。でも実の父親にも会わせてもらえない上にそれだったので、かなりの覚悟で受け入れたのにあっさり別れる……ということを繰り返され、娘としては家族関係や生活スタイルがコロコロ変わるのは苦痛でしかありませんでした」
交際相手が外国人だった頃もあり、突然キリスト教のミサに連れて行かれたり、交際相手の家に一緒に遊びに行って泊まらされたりすこともあった。
中学生になると小倉さんは、母親に交際相手を紹介されても、「どうせこの人ともすぐ別れるだろう」と思い静観するようになっていた。