南米大陸における「日本の窓口」との出会い

86年2月、塩澤は外国人選手視察のためアルゼンチンに出発している。

「ブラジルではすでに情報が回っていて、日本人が獲りに行くと(年俸が)高くなる。だったらアルゼンチンに行こうかと。レベル的には(ブラジルと)そう変わんないですから」

首都ブエノスアイレスの空港では北山朝徳が待っていた。

北山は47年に現在の広島県呉市で蜜柑農家の次男として生まれた。拓殖大学を卒業後、アメリカ、南米大陸を放浪し、ブエノスアイレスに落ち着いた。まずは漁業関係、続いて運送業を立ち上げた。

78年、アルゼンチンでワールドカップが開催された。北山は付き合いのあった加茂商事の加茂建から頼まれ、現地で日本サッカー協会関係者の面倒を見ることになった。これがサッカーとの繋がりの始まりだった。

その後、インデペンディエンテの来日を手配した。招聘しょうへいの際、クラブ会長だったフリオ・グロンドーナと親しくなっている。

グロンドーナは後に、アルゼンチンサッカー協会会長となる南米サッカー界の顔役だ。北山は日本サッカー協会国際委員となり、南米大陸における日本の窓口となった。

塩澤は北山との初対面の日のことをよく覚えている。

「打ち合わせ中、話していたと思うと、突然、寝ちゃったんですよ。私はどうしたらいいか分からない。言葉も分からないし。海外でやっていくにはこれぐらい図太くないとやっていけないんだって思いました」

時差ぼけで眠気を必死にこらえていた自分も寝ることにしたと笑った。

リーグ最終戦をボイコットの深刻さ

塩澤は外国人選手以外、来季のチーム編成に関与していない。

「(社員選手以外のプロ契約)選手をある程度、切ることは分かっていた。誰を残せとかは言っていないです。そもそも知りませんから。そのとき考えていたのは中盤でボールをきっちりキープできる(アルゼンチン人)選手がいたら獲ろうと。それだけでした」

写真=iStock.com/diegograndi

アルゼンチンの特徴は、首都ブエノスアイレス近郊にクラブが密集していることだ。その中の1つ、デフェンソーレス・デ・ベルグラーノに足を運んだ。デフェンソーレスは1906年設立、ブエノスアイレス北部、ヌニェス地区のクラブである。

そこで一人の選手が目についた。

「あ、これはなんかすごい選手がいるな、っていう感じで。それで、話をして獲ることにした」

62年生まれのミッドフィールダー、ホルヘ・アルベーロである。ホルヘに加えてディフェンダーのミンドラシオとも契約を結び、日本に向かった。そして成田空港で、全日空SCの一部選手がリーグ最終戦をボイコットしたことを知ったのだ。

「(日本リーグから)どういう処分が下るか、分からない。リーグから引き上げてくれと言われる可能性もあるじゃないですか。私は待つしかなかったんです」

事態を深刻にしたのは、試合の相手が三菱重工業サッカー部であったことだ。日本を代表する製造業である三菱重工業はサッカー協会、リーグに大きな影響力があった。

また、リーグの責任者、総務主事は三菱重工業の森健兒だった。全日空スポーツの社員が謝罪に行くと、天下の三菱に何をしてくれたのだという怒りが森の顔に浮かんでいたという。

1部に昇格したばかりの新参者が重鎮の顔に泥を塗ったのだ。重い処分が下される可能性もあった。