大正期の女学生も同じようなものを履いていた
まずはひとつ写真(図版1)をご覧ください。これは1916(大正5)年頃の写真です。
小樽高等女学校(現・小樽桜陽高校)の生徒たちがスキーをしている様子が写っています。この学校は後にチュニック型体操服(上着の丈が腰から膝ぐらいまでの長さのもの)を導入するのですが、この段階ではまだ過渡期だったのでしょう、袴をたくし上げて使っていることがわかります。
さて、ここで足のあたりにご注目ください。アシㇼパと似た黒いものを履いているようにも見えます。これは一体何なのか。恐らく、長い靴下をゴムかガーターベルトで留めているのだと思われます。
残念ながら小樽高等女学校に関する史料を見ても、具体的に何を履いていたのかがわかる記録は出てきません。それでも写真は沢山残っています。次に挙げるのは1918(大正7)年頃の運動会の時の写真(図版2)です。この時にはすでにチュニック型体操服が採用されています。女学生たちの足元を見ると、やはり革靴に合わせて黒い靴下のようなものを履いていることがわかります。
物流拠点・小樽には最新アイテムが集まった
小樽高等女学校はちょうど『ゴールデンカムイ』の舞台とほぼ同時期、具体的には1906(明治39)年5月1日に開校しています。その初代校長がとても先進的な人で、「女子の健全な成長には体育をさせなければいけない」と考えて、比較的早くからスキーをさせるようになりました。それで寒さをしのぐために彼女たちは長靴下(もしくはタイツ?)を履いていたのでしょう。
ちなみに、この手の最先端のファッションは、欧米と直接の交流があった横浜や神戸などの大きな国際港を起点に広まることが多かったようです。当時の小樽は北海道のみならず、北日本を代表する港であり、物流の一大拠点でした。
当然ながら小樽港は横浜や神戸とも繋がっていましたので、東京の中心で流行しているような最新のファッションなども、さほど時間を置かずに伝わってくる環境が整っていたはずです。
西洋式の女子体操服も誕生した直後に、横浜・神戸を経由して入ってきたのでしょう。女学生たちが履いている靴下も恐らく同様の経路で、同じ頃に入ってきたものではないかと推測されます。