米、小豆、砂糖が小樽に集まっていた

明治30年代に、お米と小豆と砂糖の三つがすべて小樽に集約される環境が整いました。当時の北海道では、お米はほとんどを本州から入手しており、この時期には鉄道網も整って内陸部への運送が可能になっていたため、小樽港を経由して各地へと運ばれていました。

砂糖も同様に本州から大量に輸入され、市内の菓子商が入手できる環境があったのです。さらに内陸部の十勝からは小豆が集まってきます。これらの三つの素材を活かして小樽は和菓子の本場になり、餅屋さんや団子屋さんが誕生していきました。

現在の小樽では洋菓子も名産品の一つですが、これもやはり小樽が物流の拠点だったことが大きいと言えます。出入りの多い港町であるがゆえに、小樽には最新の流行り物が入って来やすい環境でした。

例えばアイスクリームは明治末の段階で記録が残っていますし、明治20年代から有名な洋食屋さんが営業を開始しています。そうしたお店ではデザートも出したはずですから、洋菓子もこの頃にルーツがあるのだろうと推測できます。

小樽のガラス産業は「物流の容器」が起源

また、小樽の特色ある伝統工芸品としてガラスが挙げられますが、実はこれも「物流」という観点で説明できるのです。今はだいぶ減ってしまいましたが、小樽にはかつて梱包資材の会社が沢山ありました。物流の拠点港ですから、梱包材も需要が高かったのです。

現在の小樽を代表するガラス製造会社・北一硝子さんや同じルーツを持つ浅原硝子さんなどにお話を伺うと、「うちはもともと容器屋だった」という言い方をされます。

2010年6月18日、北海道の小樽にある北一硝子
写真=iStock.com/winhorse
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例えば、今ではプラスチックチューブに入っている歯磨き粉なども、かつてはガラスの容器に入れられていました。そのような容器を必要とする業種が小樽には溢れており、膨大な需要に応えるためにガラス製容器をつくる会社も多く存在したわけです。

昭和初期のガラス製容器
写真提供=小樽市総合博物館
昭和初期のガラス製容器

もちろん当時から、その技術を生かす形でランプや漁業用のガラス浮き球なども生産されていましたが、圧倒的に需要があったのは容器の方だったので、あくまでも「容器屋さん」という意識だったのでしょう。