笠置は服部の曲しか歌わなかったが二度の危機はあった
笠置が絶頂期、田村秋子との雑誌の対談で、映画『赤い靴』の主人公が死ぬラストシーンに感動して涙を流したことを私は思い出した。服部克久さんの言葉を「意外」と思った反面、正直なところ私はどこかで、そうではないかという予感もあった。笠置が歌手を廃業すると公表した当時の服部のコメントが、まったくないというのはおかしいと思ったからだ。
服部の怒りも、わからないではない。これまでに二度、笠置は服部の手から離れようとしたことがあった。1939年に笠置が益田貞信の誘いでSGDから東宝へ引き抜かれようとしたとき、服部は前面に立って笠置を奪い返した。47年には笠置が吉本穎右との結婚を約束して芸能界引退を決心したが、穎右の死で果たせず、笠置は出産後に再起の曲を書いてくれと服部に頼んだ。
結局、二度とも笠置は服部のもとに帰ってきたのだ。それなのに、今度はなんの連絡もなしに笠置は勝手に歌手を引退してしまった。そんな弟子に対する師匠の、やり場のない怒りが爆発するのは当然だろう。
服部は後年、「私は笠置君というバイタリティー豊かな歌手がいたからこそブギの曲が書けたわけであり、また私がいたからこそ彼女もブギが歌えたわけだ」と語っている。一方、笠置は服部との関係を、「人形遣いと人形、浄瑠璃の太夫と三味線のように切っても切れない関係」と自伝『歌う自画像』に書いている。服部にとって笠置は創造の泉、笠置にとって服部は道を拓いてくれた恩師。だが互いの才能に惚れ合った関係にも、幾多の葛藤があったに違いない。
才能ある作曲家と歌手としてお互いに抱えていた葛藤
とくに戦後、ブギが爆発的にヒットして笠置は時代の寵児になるが、服部はあまりにも売れっ子になった“笠置のブギ”に当惑するのである。服部が生み出したブギとは別に、笠置のバイタリティーあふれるボディーアクションの魅力に人々が熱狂したのだ。
笠置の魅力はそこにあると知りながら、ブギウギ本来の音楽性からはみ出していると服部は苛立つようになり、音楽家として自分が生み出したブギに悩み、スランプに陥っていく。真摯な表現者ほどぶつかる道かもしれない。まるで一心同体のような「人形遣いと人形」とはいえ、いつかは表現者として別の美学、別の道が生じるのは避けられないものなのだ。どうやら服部が笠置の歌手引退を「美事な引き際」と思えるようになるまでには、長い時間が必要だった。