理不尽な指導は「手っ取り早くて楽」

繰り返すが、苦痛や理不尽を本人がどのように乗り越えるかが大切だ。自らの至らなさを自覚したときの自信喪失や見通しが立たないことへの漠然とした不安、論理的に説明できない事態に立ち向かうときのいら立ちや逡巡しゅんじゅんを抱えながら、自問自答を繰り返すことで人は成熟を果たす。その結果としてパフォーマンスは高まる。

このプロセスをじっくり見守り、成熟へと導くコミュニケーションの仕方を、指導者や先輩は身につけなければならない。

いま、指導者や年長者に求められるのは、手っ取り早く相手を変えようとする、いわば促成的な手段としてのハラスメント的な言動ではなく、当の本人がプロセスそのものを楽しめるような促しだ。相手の成長をじっくり待ちながら、焦れる己を制御しつつ慎重に言葉を選ぶという構えなのである。

人間はか弱き存在である。踏みつければ踏みつけるほどにたくましくなる雑草ではない。雑草のようにたくましくありたいと願いながらも、ときにガラスのように壊れてしまうこともある。

か弱き者が、その弱さを経て強くなるためには、他者から注がれる温かなまなざしがいる。指導者や先輩が後ろ盾となり、ときに叱咤しったしながらも苦痛や理不尽に立ち向かう後進の背中をそっと押す。その人がその人らしくあるためには、少しだけその先を歩く年長者の包み込むような言動が不可欠だ。

「結果さえ出せば手段は問わない」という思考からの卒業

華々しい結果だけに目を奪われることなく、それに至る手段をも注視する。個人の自由と尊厳を重んじるいまの時代はとくに、望まれる結果を手にするまでのプロセスを大切にしなければならない。誰しも聖人であれといっているわけではない。長期的なスパンで人の成熟を見守る目を育み、社会生活全般を人権という物差しでいま一度考え直してみませんかと、呼びかけているだけである。

宝塚歌劇団では、睡眠時間を削らなければこなせない過密スケジュールや、去りゆく電車に頭を下げるなどの無反省に繰り返されてきた儀式的な上下関係などが、伝統を重んじるというもっともらしい理由で今日まで続けられてきた。

スポーツ界でも、どのような状況であっても先輩や来客へのあいさつを欠かさない形だけの礼儀や、軍国主義的なふるまいが続いている。こうした旧態依然のしきたりにもピリオドを打たなければならない。

これまでの慣習や考え方をアップデートするにはそれなりの労力を必要とするし、勇気もいる。ただ耐え忍ぶのではなく、愉快に楽しむを美徳とし、厳しくも楽しいという雰囲気を作る。これはすなわち人権を重んじることにほかならない。

人権という観点から慣習や考え方を見直す。これがハラスメントをなくすための出発点であり、まず見直すべきなのが、「苦痛や理不尽を乗り越えなければハイパフォーマンスは叶わない」を前提とする「結果さえ出せば、その手段を問わない」という考え方だと私は思う。

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