神聖ローマ帝国皇帝が味わった「カノッサの屈辱」
東フランク王国は、911年にカロリング王朝が絶え、919年にザクセン人のハインリヒ1世が諸侯によって東フランク王に選出され、フランク人の王統が途絶えてしまう。これによって東フランク王国はドイツへと変わっていく。
ハインリヒ1世の息子オットー1世は962年に、ローマ帝国皇帝の冠を授けられ、初代神聖ローマ帝国の皇帝になる。
実質的にはドイツ王が神聖ローマ皇帝を兼ねることになった。
皇帝はカトリックの中心地であるイタリアを支配下に置いて、ローマで戴冠することを目指していたので、皇帝自身はドイツ本土にいない状態が続いた。
その結果、次第に有力諸侯が自立化して「ラント」と呼ばれる「領邦」が形成され、諸侯の領土が独立国のような存在となり、皇帝の支配がほとんど及ばない状態になっていった。
そこで皇帝は、教会の聖職者の任免権を持つことで諸侯に対抗しようとするが、ハインリッヒ4世の時に、聖職叙任権を巡ってローマ教皇グレゴリウス7世と対立するも、ローマ教会から破門されてしまうことになる。
のちにハインリッヒはカノッサ城に滞在していた教皇に許しを請い、雪の降る城の門で3日間断食と祈りを続けた結果、ようやく破門を解かれた。
いわゆる「カノッサの屈辱(1077年)」である。
選挙によって皇帝を選出した
これによって、皇帝よりも教皇の力の方が上であることが証明され、その後1254年~1273年までの約20年間、ドイツ人が帝位につかない「大空位時代」と呼ばれる期間が続く。
「大空位時代(Interregnum)」とは本来、王政ローマ時代に、王の死後、後継者が決まるまでの期間、「中間王(Interrex)」が任命されて統治する政治体制を表す言葉であった。そこで、諸侯たちは新たな皇帝を選挙で選出することになる。