士気が低ければ、大軍もただの烏合の衆
そもそも旧幕府側は、薩摩藩兵と戦になる可能性は低い、と見ていました。
圧倒的な兵力差を見て、薩摩藩はビビって退くだろう、と高を括っていたのです。
大政は奉還しても、まだまだ徳川家の威光は大きいと思っていたわけです。もちろん、これは完全な見込み違いでした。
西郷率いる薩摩藩兵は、「この戦いこそが討幕の幕開けとなる」との意気込みを強く持っていました。
一方の旧幕府軍の士気は中途半端、思惑もバラバラです。ひと口に旧幕府軍といっても旧幕臣だけではなく、会津藩、桑名藩をはじめとする諸藩からの招集された兵や新撰組も加わっていました。
彼らは1866年(慶応2年)に起きた第二次長州征伐の失敗で、幕府の威信が地に落ちていることを肌で感じていました。だからこそ、力づくで“薩長”を討とうとしたのですが……。
そんな状況の中で薩摩藩兵は容赦なく、開戦を告げる一発を旧幕府軍に撃ち込んだのでした。
のちに西郷は、「あれほど嬉しかった一発はない」と語っています。
鉄砲に実弾すらこめていなかった旧幕府軍は大混乱となり、次々に薩摩藩兵に蹴散らされていきました。
この一戦は、兵数という表面的な戦力に惑わされず、士気という実際の戦力を冷静に見極めた、西郷の勝利と言っていいでしょう。
現代のビジネスにおいても、ライバル会社の士気はどうなのか、まとまり具合は、とつけ込む隙を探ることは、弱者逆転の糸口になるはずです。
十倍の敵を倒した戦術の中身
油断させる
織田信長による桶狭間の戦いは、すでに触れたように、日本の“三大奇襲戦”の一つに数えられています。
2万5000の今川軍を3000の織田軍が破った有名な戦いですが、兵力差は2万2000もありました。
――では、三大奇襲戦の残りの二つを、読者はご存知でしょうか?
一つは、1555年(天文24年)10月、周防・長門・豊前・筑後・石見・安芸の守護を兼ねていた大内義隆を弑逆した陶晴賢(前名・隆房)の3万の6軍を4000の兵で毛利元就が破った「厳島の戦い」です。こちらの兵力差は、2万6000でした。
もう一つが、1546年(天文15年)10月の関東管領の山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・足利晴氏などの連合軍を、北条氏康が打ち破った「河越城の戦い」です。
この河越城の戦いは、他の二つに比べるとあまり知られていませんが、彼我の兵力差はもっとも大きく、8万対8000でした。
十倍の敵をさて、どのようにして倒したのか。その戦術を順を追って、見てみましょう。