今日でも、人気の商品や限定商品などを販売開始と同時に買い占め、そのまま高値で売却する「転売屋」の問題がしばしば取りざたされるが、その是非はさておき、見方を変えればそうした転売行為も一種の「投機」ともいえる。

当時の不動産売買の現場においても、値上がり後における高値の売却を見込んだ、投機・転売目的の購入者が現れるのは必然であった。

現地見学会は活況、購入申込者の行列も

新聞の不動産広告は、1970年頃になると、目に見えるほど顕著に増加していく。数週にわたって掲載されている広告もあるにはあるのだが、多くの広告は、1度、2度きりの掲載で、次々と新規の分譲地の広告が登場している。

ほとんどの場合、数日間の日程で「現地見学会」の日時が設定されており、たとえ分譲地が千葉の山奥であろうとも、集合場所は東京都内や神奈川県内の主要駅で、専用のバスを手配し、参加費はもちろん無料、昼食まで提供されるというもてなしぶりである。そんな見学会の案内には必ず、申込金の持参を促す記述があり、参加者は見学終了後、列をなして購入の申し込みを行っていた。

宅地分譲は今の時代でも行われているが、規模にもよるとはいえ、現在の宅地分譲は通常、造成された宅地に販売業者が立てたのぼりや看板が並び、時には建売住宅をモデルハウスとして、都度見学会を開催しながら完売まで営業活動を続ける、という販売手法が一般的だと思う。

しかし、この時代はそんなレベルではなく、条件が良ければ瞬く間に完売していた。

よほど悪条件か、あるいは固有の事情でもない限り売れ残りなどまず考えられないほどの盛況ぶりで、だからこそ同じ分譲地の広告が長期間にわたって掲載されることなどなかったのだ。当時の不動産広告は、その更新頻度の高さもさることながら、広告に躍るキャッチコピーからも、土地ブームの熱気というものが伝わってくる。

完売しても家が建たない

そうした広告の中に、時折「先取り」のキャッチコピーが見られることがある。自己使用のための住宅用地の販売にはそぐわない表現だ。こうした分譲地は、おそらく販売業者側も、建前上は住宅地をうたっていたとしても、実際には購入希望者のほとんどが投機目的であったことを十分承知していたはずである。

その分譲地の周囲にも、すでに完売しているにもかかわらず、一向に家屋の建築が進まない分譲地が至る所に点在していたからだ。矢継ぎ早に新規の宅地開発が繰り返される中、その市場の現状すらも把握せずに宅地開発に参入する業者などあるはずもない。

開発業者にしてみれば、いったん販売してしまえば、その後購入者が実際にそこに家屋を建築するかどうかは、さして問題ではなかっただろう。安価に開発して、安価に素早く売却し、それを元手にさらに次の土地を開発する、それが当時の投機型分譲地のビジネスモデルであった。そこに、良質な住環境を整備しようという都市計画の理念が入り込む余地はない。

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これは今でもあまり変わらないと思うが、町村レベルの小規模自治体は、潤沢な資金を持つ企業の開発行為や活動を抑止できる力を持ち合わせていないことが多い。首長より、地元の土建会社の方が実質的に立場は上といった話は珍しくもないし、しばしばその癒着が表沙汰になり刑事事件化したりする。