無気力、引きこもりが増えた理由

ところが、高度成長期が終わり、バブルが崩壊し、努力によって物質的な豊かさが得られることが約束されなくなりました。さらには、物質的な豊かさだけではすべてが満たされて万事OKとはならないことも、徐々に明らかになってきました。

「寝食には事欠かなくなったけど、何かが足りない気がする」という現代的な苦悩が、徐々に主体になってます。そうなると、努力をして戦ったり、他人を蹴落としてまで物質的な豊かさを無理に追い求めることは、次第に敬遠されるようになりました。

費やす努力と、そこから得られる報酬(豊かさ)が釣り合わなくなってきたのです。そして、社会としても、個人としても、目指すべき方向性が見えにくくなってきました。そうなると、出世に興味を持たない人、人生の目的や優先すべきことを見失う人が増えるのは、自然の流れのように思います。

自分が何のために生きているのかわからない。

社会にも、自分の将来にも希望が持てない。

他者からの要求に流されている気がするけれど、強く逆らおうとも思えない。

「目指すべき方向性が見えなくなっている」「闘うことの意義が失われている(闘ってもムダ)」という社会全体の変化が、ただ静かにあきらめる、無気力になる、引きこもるという個人レベルでのストレス反応の変化に深く関わっているのではないか、と思うのです。

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「ムカツク」から「ムナシイ」への大きな変化

演出家の竹内敏晴氏は、その著書『思想する「からだ」』(晶文社)の中でこう述べています。

「一九九〇年代になって、子どもたちの間には、『ムカツク』を追い上げるように、『ムナシイ』ということばが広がり出しているようだ」

いつの世でも、時代に対してもっとも感受性が高いのは若者たちです。この「『ムカツク』から『ムナシイ』へ」の変化というのは、社会学的にとても重要な視点だと考えています。

心身社会研究所の津田真人氏は、80~90年代あたりから、われわれ人間の危機に対する防衛反応が、交感神経主体から背側迷走神経系主体へとシフトしているのではないか、と指摘しています。これは、私自身も臨床的に体感しているところであり、あらゆるところで、「背側化」の徴候が見られているように思うのです。

昭和世代と令和世代のストレス反応の対比は、文学や音楽にもよくあらわれています。よく引き合いに出されるのは、チェッカーズの『ギザギザハートの子守唄』と、そのオマージュ的な歌詞を含んだAdoの『うっせぇわ』です。

「ちっちゃな頃から悪ガキで 15で不良と呼ばれたよ」「ナイフみたいにとがっては 触わるものみな 傷つけた」(『ギザギザハートの子守唄』)

このように、『ギザギザハートの子守唄』の主人公は、「ナイフ」を持っていますが、『うっせぇわ』の主人公は、「ナイフ」を持っていません。

ストレスがかかったときに、交感神経的なアグレッシブで直接的な反抗をするのではなく、表向きは優等生的に迎合している。「でもなにか足りない」という虚無感、不満はあるけど、それが何のせいだかわからなくて「困っちまう」のではないか。