「ユー、このなかでどれがいいと思う?」

そして何と言っても、「ジャニーズ番」としてジャニー氏と直で話ができる稀有な存在だった。他局のプロデューサーからも一目置かれていた。そんな沼部氏から新入りペーペーの私に直々に声がかかったのである。

「何か特別なことがあるんじゃないだろうか」

そう直感したとしても、不思議はないだろう。

案の定、向かった先の後楽園スケートリンク(当時)にいたのはジャニー喜多川氏だった。ジャニー氏は初めて会った私にこう言った。

「ユー、このなかでどれがいいと思う?」

目の前のリンクでは、ローラースケートを履いた少年たちが勢いよくぐるぐる円陣を組んで滑りながら、ジャニー氏と私たちがいる場所まで来るたびに「こんにちは!」と満面の笑みで元気よく叫んでゆく。私は「あの子ですかね」とひとりの少年を指さした。

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ジャニー氏は「ユーもそう思う? なかなかセンスいいね」と言った。

あとになって知るのだが、この場はのちにスーパーアイドルグループとなる光GENJIの最後のひとり、センターを選ぶ大事なイベントだった。メンバー7人のうちの「光」である2人と「GENJI」のうちの4人は既に決まっていた。

そしてそのときに選ばれたのが、光GENJIのなかでも絶大な人気を誇った諸星和己氏であった。私が指した少年は、諸星氏だったのだ。

光GENJIの絶頂期、SMAPの誕生に立ち会う

このエピソードからわかるように、ジャニー氏という人は初めて会った相手にもわけ隔てなく接し、それがたとえ若造のADであったとしても気にすることなく意見を求め、その声を聞く耳を持っていた。

その一件がきっかけで、何となくジャニー氏は私に目をかけてくれるようになり、私は「ジャニーズ事務所担当(ジャニ担)」となった。そして光GENJIの絶頂期を目の当たりにし、のちに国民的アイドルとなる「SMAP」の誕生にも立ち会うことになる。

SMAPは当時、6名。最年少の香取慎吾氏は小学6年生だった。ほかのメンバーも含め普段は学校があるので、夏休みになるとまとめて撮影をするために千葉に合宿に赴いた。

夕方に撮影が終わったあとの私の仕事は、「風呂に入って、6時に大広間に集合!」とみなに号令をかけて大広間で宿題を教えることだった。同じ食卓を囲み、夜は一緒に雑魚寝をした。いま思えば、一番大変だったが、一番楽しく充実しているときでもあった。

彼らは私を兄のように慕い、頼りにしてくれていた。私は彼ら一人ひとりを名字ではなく「拓哉」「正広」などと名前で呼んでいた。遊びたい盛りの年ごろでありながら厳しいレッスンや芸能活動で忙しい彼らは、「心細い」ところがあったのだろう。私によくなついてくれていたのではないかと思う。