「底の底の人たちにまで、わたしの芸を理解してもらいたい」
「世間ではあの人たちのことをパンパンガールなんて悪くいいますけど、わたしにはどうしてもそんな言葉では呼べませんね。あの生一本な純情なところを見ると、あの人たちは決して悪い人たちじゃないと思いますよ」(『サンデーニュース』17号、1948年)
と語っていて、彼女たちに共感の心情を寄せているのがわかる。自分もまた生一本で純情だったからだろう。
「靴磨きの子ども達は可愛いですよ、わたしがコヤがはねて帰るでしょ、するとあの地下鉄の階段あたりのところで待機してるんですね、知らん顔して通るわけにもいきませんよ、私も思わず笑ってやったりして」(同)
有楽町の地下鉄の階段で、子ども好きの笠置が舞台を終えての帰路、靴磨きの子どもたちに笑顔を見せる表情が目に浮かぶ。
「ラク町(有楽町)でも靴磨きでもなんでもいい、そういう民衆の底の底の人たちにまで、わたしはわたしの芸を理解してもらい、そして一緒に喜んでもらいたい、これがわたしの生き甲斐です」(同)
1950年アメリカ公演に行く前には街娼たちが席を買い占めた
50年6月、渡米する笠置の歓送特別公演が日劇で行われたとき、夜の女たちの姐御“ラク町のお米”は仲間たちに大号令をかけ、日劇の1階の半分、約800席を買い占め、「ラクチョウ夜咲く花一同より」と書かれた、ひときわ大きく高価な花束をステージの笠置に贈った。笠置は感激し、彼女たち一人ひとりに「おおきに、おおきに」と応え、握手して回った。
当時の新聞は、「姉ちゃん元気で 笠置シズ子を送る夜の女達」との見出しでこう伝えている。