笠置は娼婦たちを差別せず、更生施設設立にも協力した

「東京ブギウギ」が大ヒットした直後、“ラクチョウのお米”ねえさんをリーダーとする“夜の女”たちが笠置の熱狂的なファンになり、やがて笠置に会いたがっていると知った笠置は多忙な中から時間を作って彼女たちに会い、こうした境遇の女性の自立のための更生施設作りの相談に乗るなど一役買っている。

雑誌『サロン』(49年)に田村泰次郎と笠置の対談で紹介されているが、白鳥会館という更生施設は、彼女たちが職業訓練のためのタイプライターや洋裁などを習って自立と親睦の場を図るものだった。

笠置と彼女たちの友情は、スターにありがちな作られた美談ではなかった。彼女たちから単に人気を得ただけに終わっていないところが、いかにも義理人情を重んじる笠置らしい正義感を物語っている。

たとえば、淡谷のり子は戦後、「パンパンの歌を歌うのは嫌だ」と言って「星の流れに」(最初のタイトルは「こんな女に誰がした」だったが、GHQから「反米感情をあおるおそれがある」とクレームがきて変更された)を歌うのを拒否し、47年、菊池章子が歌ってヒットした。同じ頃、水の江瀧子は劇団たんぽぽの間で、ベストセラーになった田村泰次郎の『肉体の門』を演ろうという話が出たとき、彼女は反対した。

「何が嫌だったかって、女は売春婦しか出ないんですよ。だから、『私がやることない。売春婦やるのは嫌だ』と言って」(『ひまわり婆っちゃま』)

マイクの前で歌う笠置シヅ子
写真=毎日新聞社/時事通信フォト
マイクの前で歌う笠置シヅ子、1949年

淡谷のり子と違って、笠置は身を売る女の境遇に共感した

水の江は劇団たんぽぽを解散することにし、そこから別に「空気座」を作った団員たちが『肉体の門』を舞台に立ち上げ、それが大ヒットした。水の江にはスターとしてのプライドがあり、それはおそらく淡谷と同様のものだっただろう。淡谷も水の江も、人の上に立つ者としての自覚があり、自分が何をやればいいかをよく知っていた。

だからといって、笠置がそのプライドを持たなかったというのとは違う。笠置も戦後スターになったが、もともと人の境遇を思いやることのできる苦労人であり、そこには成功者としての傲慢ごうまんさは微塵もない。笠置は“夜の女”たちと自分との間に心の垣根を作ることをしなかった。自分が歌で人々に元気を与えられるのは、自分もまたいろんな人から声援を得ているからこそできるのだという、淡谷や水の江には希薄な、スターであると同時に生活者としての自覚と、健全な社会性があったからだ。戦後、多くの戦争未亡人たちが母子家庭となったが、笠置は彼女たちが置かれた状況を決して他人事として見なかった。