豊臣系大名たちの手で豊臣色を消し去らせた
ところで、諸大名を動員しての御手伝い普請は、征夷大将軍の軍事指揮権が発動された結果だった。すなわち軍役と同様のものだった。また、領土を保全してもらっている「御恩」に対する「奉公」という点でも、軍役と同じだった。
家康は駿府城や名古屋城をはじめ、多くの城を御手伝い普請で築き、諸大名に工事を請け負わせることで、彼らの築城技術を利用し、経済力を疲弊させると同時に、諸大名とのあいだの主従関係を構築していった。
秀忠も大坂城の再建で、それに倣ったのである。もし家康が早期に没していたら、秀忠ではなく秀頼を担いだかもしれないような豊臣系の大名たちを、10年近くにわたって大坂城の普請に動員。経済的な負担を課しながら、彼らみずからの手で豊臣の色を消し去らせ、自分との主従関係を堅固なものにしていった。
「どうする家康」では、家康の目標として「戦なき世」がたびたび強調されたが、家康の死後も諸大名にとっては、城郭普請という「戦」が、なおも続いていたといえる。
豊臣への恐怖心が強かった秀忠の、脅威に対する執念で築かれた、徳川権力の象徴としての大坂城。その築城をとおして、徳川幕府の力は確実に固められていった。