どんなに小さな書店でも挨拶に回っていた
作家は新刊が出ると書店へ行く。販売促進とサイン本を書くためだ。書店へ行って挨拶すれば書店員が著書を目に付く場所に平積みにしてくれる。そうすると、本は売れる。またサイン本を書けばほぼ売れる。サイン入りの本は返本できないから書店はいいところに並べて売る。作家は一冊でも多くサイン本を書き、サイン入り色紙を置いてくる。
わたしは本が出るたびに東京、名古屋、大阪、福岡の書店を回ることにしていた。そうやって地道に本を売っている。すると、どこの書店へ行っても必ずサイン入り色紙がある作家がいた。伊集院さんと浅田次郎さんだ。このふたりの色紙はどんな小さな町のどんな小さな書店でも置いてあった。
ふたりの色紙を見ると、わたしは「負けてたまるか」という気になり、どこの町の書店でも飛び込んでいって挨拶をした。
大阪の、とある小さな書店で働いていた女性店員に聞いたことがある。
「伊集院先生はこちらにもいらしたのですか?」
メガネをかけた彼女は上気して「はい」と答えた。
「色紙を書いてくださって、しかも……」
しかも……。
「ハグしてくださいました」
そうか、わたしも追加サービスでハグをしなければならないのか。と彼女を見たら、じりじりと後ずさったのである。
「ばか者、お前ごときにハグされてたまるものか」という女性店員の気迫を感じた。
伊集院さんが“仕事の流儀”を語った日
その日だったか別の日だったか、大阪にある世界三大バー(by伊集院静)のひとつ「チルドレン」へ行ったら、伊集院さんがカウンターで飲んでいた。なぜかメキシコのプロレスラー、ミル・マスカラスの仮面をかぶってウイスキーをあおっていた。
伊集院さんが仮面をかぶることは知っていたので、ただ単に「こんばんは」と挨拶して、編集者とふたりでウイスキーを飲んだ。
マスクのなかからもごもごと伊集院さんがこんなことを言った。およそ説教くさい話をしない人だったのに、酔っぱらっていたのだろう。わたしは伊集院さんから初めて世間話以外の話を聞いた。
「野地くん、ふたつの道がある。ひとつは楽な道だ。適当に短いものを書いて連載して売ればいい。もうひとつは儲からない道だ。取材に時間がかかってなかなか本にならない。その間、金がないから借りたり、アルバイトしたりしなきゃならない。本を出しても大して売れない。
そんなふたつの道がある。
作家になったら、当然、貧乏になる道を行かなければならない。本を売ろうなんて考えてはいけない」
そうか。もうひとつ、楽な道があったんだ。選ぶも選ばないも、わたしの前には道はひとつしかなかった。伊集院さんだって、きっと道はひとつとわかっていて、進んだのではないか。それでも後輩のために文学的に表現してみたのだと思った。ミル・マスカラスの仮面をかぶりながらでも伊集院さんは文学を追求していた。