和田アキ子さんたちは「じゅっちゃん」と呼んだ
わたしはいつも「伊集院さん」と呼んだ。伊集院さんは「野地くん」。伊集院さん夫妻の仲人でアートディレクターの長友啓典(故人)さんは「伊集院」と呼び捨てにしていた。同年代の編集者も「伊集院」と呼び捨てで、年下の編集者は「伊集院先生」だった。
俳優の高倉健さんは「伊集院ちゃん」と呼んだ。高倉さんが親しい人を呼ぶ時は「ちゃん」付けだったから。高倉さんは、石原裕次郎は「裕ちゃん」、美空ひばりは「ひばりちゃん」と呼んだ。だから、「伊集院ちゃん」。歌手の和田アキ子さんをはじめとする何人かの飲み仲間は「じゅっちゃん」と呼んだ。
わたし自身はいくらなんでも「じゅっちゃん」と呼びかけることはできなかった。
初めて伊集院さんと会ったのは1994年。『キャンティ物語』(幻冬舎)を出した後、銀座の文壇バーで長友さんから紹介された。
伊集院さんは「キミか」と驚いたような顔でわたしを見た。
「キミが『キャンティ物語』を書いた野地くんか。若いんだな(当時、37歳)。そうか、野地くんか。腕を上げたな、キミは」
「早く2冊目を書くんだ。小説がいい」
わたしは若くはなかった。だが、飯倉のキャンティで遊んだ人たちはわたしよりも15歳は年上だったから、「年下のお前が書いたのか?」と驚かれることはあった。
あの時、横にいた長友さんが「伊集院、何を言ってんのや。あれは初めて書いた本やで」と笑った。伊集院さんは動じない。話の方向を変えて、正面からもう一度、わたしを見た。
「早く2冊目を書くんだ。小説がいい。ノンフィクションなんてやめておけ」
それは伊集院さんが直木賞を取った2年後で、小説家としてすでに大家という感じを受けた。
当時、わたしは週に3回は長友さんと会って一緒に食事をして、酒を飲んでいた。長友さんはその後、待ち合わせた仲間と銀座のクラブへ寄り、カラオケへ行った。
わたしはひとりで帰った。お金を持っていなかったし、おごってもらうのも申し訳なかったから、「今日もまた締め切りなんです」と嘘をついた。それほど仕事があったわけではなかったから、締め切りなんてなかった。発表するあてはなかったが、小説や詩を書いていた。
ある晩、銀座のおでん屋で関西風おでんのクジラのコロ(皮の部分)を食べていた時、長友さんが断言した。
「野地くん、出世するで」
なぜ? どうして? それならいいのに……。
長友さんはわりと重々しく続けた。
「野地くんの前は伊集院だったんや。毎晩、ご飯食べして、酒を飲みに行った。そうだな、マンションを3軒は買えるくらいは飲んだ」