長男に自分と戦う覚悟はあるのかと迫った家康

その後の経過を、深溝松平家の松平家忠が残した『家忠日記』をもとにたどってみましょう。浜松を発した家康は8月3日に岡崎城に入り、信康と対面して事情を聞きます。おそらく信康は、ことの真相を家康には語っていないでしょう。

松平信康の肖像(写真=勝蓮寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

そして2日後の8月5日、家康は西尾城へ移って戦支度をし、信康は大浜城へ移されています。これはいったいどういうことなのか。行動の意味がつかみづらい。これは小説家的な想像で証拠はありませんが、家康は、もし信康が信念に基づいて行動を起こすなら、いつでも相手になる。戦でそれを示せと信康に告げたのではないでしょうか。

自分は西尾城に行く、お前は大浜城に行って戦の準備をしろ、と。信康はすでにひとかどの武将であり、岡崎には直臣たちもいます。対武田戦争を継続するという自分の方針に従わないのなら、正々堂々と家臣を率いて戦で勝負しろと、信康とその背後にいる家臣たちに迫ったのではないか。このわしと一戦交える覚悟があるのかと威嚇することで、逆に信康に賛同した家臣たちの戦意をくじこうとしたのではないか。そう思うのです。

家康が直に対処したことで事態は収束した

頭に血が上った信康の家臣たちは、下手に説得すれば逆上して武力蜂起に及ぶかもしれない。しかし、歴戦のつわものである家康に「俺を倒してからやれ」と凄まれたら、家臣たちもふと我に返るでしょう。それがこの事件の狙いだったのではないでしょうか。

ところが、家康が浜松から岡崎に乗り込んできた段階で、もう信康に従う家臣はいなかった。すでに築山殿や信康の計略が失敗したことは明らかでした。そこで家康は、8月9日に信康を浜名湖の東岸に位置する堀江城に移します。そして翌十日には、三河の国衆を集めて「信康には味方しない」と約束する起請文を書かせ、乱を収めてしまいました。