築山事件の始まりは家康にとって寝耳に水だった
いわゆる築山事件と呼ばれる事件は、家康の正室・築山殿と、その子で嫡男の信康が、勝頼に内通していたことを理由に家康によって殺害された事件です。私は、じつは4年前の大賀弥四郎事件が、その伏線になっているではないかと思っています。
天正7年(1579)7月16日、信長から家康に、築山殿と信康に謀反の疑いがあると通告がありました。それを訴え出たのは、信長の娘で信康の正室となっていた徳姫でした(図表1参照)。おそらくそれは、家康にとっては寝耳に水の事態だったと思います。もしかすると、水野信元を殺害した事件を思いだしたかもしれません。今度は自分が危ない。家康がそう思ったとしても不思議ではありません。
信康の家臣が甲斐・武田家と内通し、信長の逆鱗に触れた
この内通事件の張本人とされているのは、信康家臣の中根政元だったと言われています。その父・中根正照は、二俣城を守っていて武田勢に城を開け渡したのち、三方ケ原の戦いでは真っ先に討死にしたとされる、武勲で知られる人物でした。この正照の娘は、弥四郎と結婚しました。つまり、中根政元と大賀弥四郎は義兄弟になるわけです。
この人間関係が、大賀弥四郎事件と築山事件の接点になったのではないか。武田勢を岡崎城に引き入れようと画策した弥四郎は失敗した。その4年後に義兄弟の政元が、弥四郎の遺志を継いで築山事件を起こしたという理解です。
このあたりは史料がきわめて少なく、未だに定説はないのですが、どうやら徳川家臣団内部では、浜松の家康に近侍して、対武田戦争に積極的だった層と、岡崎の信康に近く、武田との対決に消極的だった層があり、両者の間で意思の疎通が図られていなかったように思われます。そうした家臣団内部の動揺を受けて武田方への内通を図ったのが、政元ということになります。
そして、徳姫がそのことに気づいて信長に注進に及んだ。信康と築山殿が勝頼に内通しているという話は、こうした家中の情勢を背景にしたまぎれもない事実だったと思います。