冬の陣後、大坂城の浪士たちが織田有楽と対立し追い出した

ところが、もう一つの条件であった、牢人の召し放ちについては、進展しなかった。あろうことか在城衆は、幕府方軍勢が引き揚げると、すぐさま堀の掘り返しや建物の再建を始めた。さらに武具を用意して、明らかに再戦の動きがすすめられていった。そうした状況をうけて、大坂方の最高首脳の一人となっていた織田有楽が、大坂城から退去した。有楽は先の和睦締結を担った一人であった。条件の不履行は、ただちに再戦につながることになる。

在城衆のなかには再戦を推進する勢力が大きく、有楽との間に激しい路線対立が生じていて、有楽はいわば、それに敗れて退去せざるをえなくなったのであろう。有楽退去の後は、大野治長が大坂方の唯一の総帥になったが、彼も先の和睦締結を担った人物であり、彼もその後に再戦推進勢力から暗殺されかけるという始末であった。もはや大坂方では、それらの勢力をまったく制御することができなくなっていたことがわかる。もちろん茶々と秀頼に、その能力がなかったためであった。

ついに大坂城落城、助命かなわず茶々と秀頼は切腹させられた

家康は4月1日に、大坂城攻めのための陣触れを発し、ここに再び幕府は大坂城を攻めることになった。且元はこの時、駿府で与えられていた屋敷に居たが、幕府軍の上洛に従って、その後は秀忠軍に従軍した。合戦は4月27日、大坂方の先制攻撃によって始まった。大坂夏の陣の開戦である。本格的な交戦は、同月29日の樫井合戦から始まり、幕府方軍勢は大坂方を破りながら進軍していった。5月6日に道明寺合戦と八尾・若江合戦で激戦が展開されたものの、勝利した幕府方軍勢は、さらに大坂城に迫った。

そして翌7日、最後の合戦となる天王寺合戦が展開された。よく知られているように、真田信繁が家康本陣に三度まで突入したものの、反撃をうけて戦死にいたる合戦である。大坂方は敗北、幕府方軍勢は大坂城に攻め寄せていった。

大坂城では火の手が上がり、やがて天守にまで及んだ。茶々・秀頼らは天守下の山里曲輪のなかの土蔵に避難した。8日朝までにその土蔵も焼けたらしく、その焼け残りに隠れていたところを且元が見つけたという。それから幕府方と茶々・秀頼の助命交渉が行われたが、叶わず、ついにその日の昼に、茶々・秀頼らは自害して果て、羽柴家は滅亡を遂げた。茶々は47歳、秀頼は23歳であった。

撮影=プレジデントオンライン編集部
大阪城公園、秀頼・淀殿ら自刃の地