「若いが、なかなかの食わせ者」

武力が強いとか(もちろん、大河ドラマのように格闘の腕が立つといったこと)ではなく「若いが、なかなかの食わせ者だから油断するな」というのが信長の言いたかったことなのです。

長篠合戦以後も、徳川軍と激しい攻防を繰り広げており、すぐに勝頼の勢いが衰退したわけではありません。長篠合戦のあった年、徳川軍は勢いに乗り、武田方の遠江・小山城(静岡県榛原郡吉田町)を攻略しようとしますが、これを聞いた勝頼は1万3000の大軍を率いて来援。これには徳川軍も退却せざるを得ませんでした。

しかし、徐々に信長・家康に追い詰められて、最終的に武田家は滅亡してしまいます。

天目山勝頼討死図〈歌川国綱画〉(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons

勝頼の首を前にした信長の行動

天正10年(1582)3月、勝頼は家族とともに自刃して果てます。

信長公記』(信長の家臣・太田牛一が記した信長の一代記)などから読み取れるのは、信長は自らを苦しめた者には、非常に手厳しい仕打ちをすることです。

自分を裏切った北近江の大名・浅井長政(信長の妹・お市の夫)を攻め殺した後には、長政の首は肉を落とし、切り取った骨を薄濃(漆で固め彩色)し、酒宴の肴として出されています。長政の父・久政も長政と共闘した越前の大名・朝倉義景も同様の扱いにされました。

長政の10歳になる嫡男は探し出されて、関ヶ原ではりつけにされています。信長を鉄砲で狙撃した杉谷善住坊は、立ったままで土中に埋められ、首をのこぎりでひかせて惨殺されているのです。これらは、信長の鬱憤うっぷんを晴らしたもののようですが、信長の激しさが窺えます。

では、勝頼の首に対してはどのように処したのでしょうか。『三河物語』(江戸時代の旗本・大久保彦左衛門の著作)には、勝頼の首は京都に送られて「獄門」にかけられたとされています。

勝頼の首を見た信長の言葉は、「日本にまたとない武人であったが、運がおつきになり、こうなられたことよ」だったとあります。

『信長公記』には、勝頼の首が信長に進上されたことは書かれていますが、信長の感想までは記されていません。ただ、勝頼ら武田家の者が、最後の戦いにおいて、比類のない働きをしたことが同書に記されています。

ただ、江戸時代中期の岡山藩士で儒学者の湯浅常山(1708~1781)が戦国武将の逸話を纏めた書物『常山紀談』には、勝頼の首実検の別の様子が記されています。