イスラエルが建国を宣言、難民はガザ地区へ

結局、オスマン帝国の領土はイギリスとフランスが山分けすることになり、英国の委任統治となったパレスティナでは、急増したユダヤ人がアラブ人の不在地主から土地を買い集めた。実際、ユダヤ人の人口比率は、1881年5%、1922年11%、1935年28%と増え続け、アラブ人が反発したが英国は弾圧した。一方、英国は移民も抑えようとしたが失敗に終わった。

第2次世界大戦後、過激なユダヤ人は、約束を破った英国も標的にしたテロを頻発させた。とくに、イルグンという組織による1946年のキング・デイビッド・ホテル爆破事件が有名だ。英国はテロに屈する形で撤退を決めた。

国連は1947年、ユダヤ人に肥沃ひよくな土地のほとんどを含むパレスティナ国土の77%を与える分割案を承認し、第1次中東戦争を経てイスラエルは1948年に建国を宣言した。すでにユダヤ人団体は、アラブ人不在地主から農地の24%を強引に買収してアラブ人の農民を追い出していたが、さらに独立後は農地のほとんどをパレスティナ人から取り上げた。

パレスティナ人のうち、50万人がヨルダン川西岸(ヨルダンが併合)とエジプト管理下のガザ地区に移り、彼らと、難民になった80万人の多くが反イスラエルの戦士となった。10万~18万人がイスラエル統治下に残ったが、ひどい差別と収奪にさらされることになった。

写真=iStock.com/scaliger
※写真はイメージです

30年前にパレスティナ暫定自治政府が成立

エジプトのナセル大統領は、イスラエルが中東問題全般でエジプトと敵対する英仏寄りだったため、反イスラエルの旗手となり、パレスティナ解放機構(PLO)の設立を助け、イスラエルを相手に第3次中東戦争をしかけた(1967年)。だが、大敗してエルサレム、ヨルダン川西岸、シナイ半島などがイスラエルに占領された。

中でもガザ地区では住民が一斉蜂起(インティファーダ)を繰り広げ、ハマスなどの武装抵抗勢力も増えていった。

PLOはヨルダンで1964年に結成され、70年にレバノン、82年にチュニジアに移り、1974年に国連総会のオブザーバー資格を得た。PLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相が1993年にオスロ合意を結び二国家共存で合意し、パレスティナ暫定自治政府が成立して、ガザ地区と聖地ベツレヘムを含むヨルダン川西岸に支配地域を持っている。

この和平合意で、パレスティナ問題は解決に向かうと思われたが、その後もイスラエルの右傾化やパレスティナの内部対立などが絡み、紛争は続いている。