「NGリスト」が持ち上げられる風潮
今回の「NGリスト」に入れられた記者たちが、誰だったのか、私には関心がない。
それが作られたこと、そこに入れられたとされる人たちが、一部からかもしれないものの英雄視されていること、そういった事実のほうが興味深い。
「NGリスト」には、ジャニーズ事務所に対して厳しかったり、都合が悪かったりする人たち、だけが載っているわけではないだろう。
リストの中には、記者会見という場を壊しかねない、と判断された人や、言葉のキャッチボールが成り立たない、司会の制御が及ばない、と見られた人物も含まれているのではないだろうか。
そんな人たちが持ち上げられる風潮は、誰にとって利益になるのか。
会見をする側である。
なぜなら、記者たちがイキリ立てば立つほど、会見をする側は、まともなやりとりから逃げる言い訳を得られるからである。興奮している人たちには何を言っても無駄であり、論点をズラしても構わない、そんな風に、見ている側に思わせられるからである。
「ゲートキーパー機能」を取り戻せ
メディア論の古くからある概念として、ゲートキーパー(門番)機能がある。不要なニュースを伝えない、捨てる眼力がマスメディアには求められてきた。業界用語で「ボツにする」、すなわち、「情報を過剰に伝えない」作業こそ、このゲートキーパー機能の主なものだった(*1)。
これまでの記者会見のほとんどは、記事を書く上で必要な情報を確かめる任務に集中していれば事足りた。つまり、「ボツ」になっていたため、かつての記者たちは、会見で自分が誰かから見られているという意識を持っていなかったのである。
少し前には、橋下徹氏や菅義偉氏が、それぞれ大阪市長と内閣官房長官を務めていた時の記者会見が話題を集めた。その頃は、橋下氏が記者に説教をしたり、菅氏が質問に答えなかったりしたために、彼らだけを威丈高に見ていた人が多かったに違いない(*2)。
時代は瞬く間に変わり、いまや記者会見そのものが見世物であり、記者たちの承認欲求を満たすステージのようになってしまった。このまま、ネット世論という、つかみどころも実態もない、幽霊のような空気に左右され、メディアはゲートキーパー機能を捨ててしまうのか。
個人や組織を指弾する記者会見ではなく、本当に知りたい質問、聞きたい事柄を、素直に聞く。記者の原点=好奇心に向き合うところからしか、ゲートキーパー機能は取り戻せない。
(*1)佐藤卓己『メディア社会 現代を読み解く視点』岩波新書、2006年、166ページ
(*2)本稿を書くにあたって、ノンフィクションライターの松本創氏による「饒舌だった『橋下劇場』会見を検証 個人攻撃を許した事なかれ主義」をはじめとする、『Journalism』(朝日新聞出版)2019年7月号の特集「記者会見 権力とメディア、何が求められているのか?」を参考にした。記して感謝したい。