原爆投下の広島、長崎が辿った異なる歩み

逆に、同じように壊滅的な被害を受けたからといって、その後の復興の道程も同じになる訳ではない。広島と長崎はいうまでもなく太平洋戦争終了直前に原爆を落とされ、町は灰燼に帰した。戦争直前の1940年の人口は広島が34万、長崎が25万でやや広島が大きかったが、いずれも重要な港湾に面し造船・機械・金属加工など製造業が発達し、よく似た都市であったといえる。

敗戦後間もない1947年、両市の人口は広島22万、長崎20万足らずといずれも人口は激減しているが、その後の歩みは大きく異なる。広島は1965年には50万を突破、1985年には100万、現在は120万に近い人口である。一方、長崎は1965年には人口40万となりその時点では広島との人口差は10万程度であったが、1970年代の半ばに45万に到達したころをピークとして、その後は緩やかに減少、2022年には40万を切った。

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大火や戦禍は町の姿を大きく変えるわけではない

町の姿は、背後にある社会や経済の構造やその変化がもたらす長期的影響に決定的に依存する。逆に言えば、背後にある社会や経済の構造に変化がない限り、災害や戦禍により失われた町は大きな変化なく復旧される。実際、明治以前の江戸、京、大坂はいずれも数多い大火により、何度もその建築物の大半を焼失してきたが、それで町の姿が根本的に変わったとはいえない。

江戸の大火の中でも特に重要といわれる、明暦の大火(1657年)は、江戸城の本丸・天守を含む外堀以内のほぼ全域を焼失させ、大火後の江戸の都市改造をもたらしたといわれる。しかし、岩本(2021)によれば、大火の被害はこれまでの推定と同じかそれ以上のものであったが、他方、大火前後の町図を詳細に検証すると、定説とされてきた「都市改造」が実は極めて限定的なもので、江戸の町並みは大火の前後でほぼ不変であったという。