背景にあるねじくれた個人主義
○○に入るのは、自分たちとは別の地域名である。岡山ナンバーのドライバーなら、倉敷ナンバーを批判するという具合に、相互に批判し合う。そのノリはマンガに出てくるヤンキー同士が学校ごとに対抗心を燃やしているのに近い。挙げ句には手に姫路ナンバーなど隣接する他県のドライバーに対しては、お互いにわが意を得たりと共感するのである。
これはもう、理屈ではなく気質の問題と断じるしかない。
岡山人の特徴として個人主義的な傾向は、よく指摘されるところだ。個人主義的な気質を持つ地域はほかにもあるが、岡山人が特徴的なのは、自分以外の他者を愚かな存在としてみる傾向だ。その県民性を現す象徴的な言葉が、ジャーナリストの大宅壮一が1958年に『文藝春秋』で連載した「日本の人物鉱脈」で記した「日本のユダヤ」という指摘である。
ユダヤの人々には失礼な話だが『ヴェニスの商人』に登場する悪徳商人・シャイロックに岡山人をイメージしているのである。だが、これは大宅の造語ではない。大宅が取材のために出身者を招いたところ、この言葉を発して同県民の悪口に終始したのだという。
「ウインカーはちゃんと出してますよ」
この精神性が運転に反映されている。多くの岡山人は、自分自身はマナーを守っているのに、周囲のクルマがそうしていないと頭から信じ切っているのである。ならば、ウインカーもきちんと出せばいいと思うのだが、これはどういうことか。
岡山人に聞いてみると、こんな話が。
「ウインカーはちゃんと出してますよ。でも、何十メートルも前から出すことはないです。曲がる直前にサッと触るくらいですね」
どうも、ウインカーを交差点の直前で出すイコール運転が巧みという思考がある人もいるようだ。さらに別の人に聞いてみると
「ウインカーに指が触れただけでドライバー本人は出した気になっている例も多いんじゃないですか」
それでも、事故にならない限り問題はないというのが、岡山人の標準的な思考のようだ。
こうした元来の思考に輪を掛けて、ルールの改善を阻んでいるのは、岡山人特有の反権力性だ。岡山人には、長いものに巻かれたり、大樹に拠ることを拒否し、わが道をゆくことを賞讃する風土が連綿と続いている。決まったルールに反した横紙破りにロマンを感じるのである。
つまり、インターネットなどで「岡山ルール」と揶揄され、批判されるほどに交通ルールを遵守する気を失っていくのである。
クルマだけではない、マナー無用の道路事情
最後に言及しておきたいのは、「岡山ルール」で指摘される運転マナーの悪さ以外にも、岡山には多くの問題があることだ。ドライバーのみならず、自転車、歩行者、おおよそ道路を利用しているすべての人々のマナーが悪いのである。