岡山県の岡山市や倉敷市では用水路への転落事故が後を絶たない。県の調査によると、2013年からの4年間で1562件の転落事故が発生し、108人が死亡している。なぜ事故はなくならないのか。岡山市出身のルポライター・昼間たかしさんは「柵の設置が進められているが対策は行き届いていない。長らく用水路の危険性が矮小化され、放置されてきた」という――。
岡山市内の用水路。
筆者撮影
対策のない用水路の典型例。日中でも人通りが少ないとはいえ、すぐ傍は住宅地だ。

岡山県で用水路への転落事故がなくならない理由

岡山県南部、岡山市や倉敷市は全国でも屈指の用水路が張り巡らされた地域である。全国の用水路の総延長は約40万キロあるが、そのうち岡山市だけで1%にあたる4000キロ、倉敷市は2000キロを占めている。

そもそも、なんで岡山県南部にはそんなに用水路が張り巡らされているのか。

用水路の歴史は岡山県の歴史である。戦国時代の後期まで、岡山県南部は瀬戸内海に浮かぶ児島(現在の児島半島)と本土との間に20余りの島が点在する「吉備の穴海」と呼ばれる海だった。この海には、東から吉井川・旭川・高梁川の3つの川が流れ込んでおり干潟が発達していた。

この干潟を干拓した新田開発は奈良時代から始まっている。この時代の干拓は小規模なものだったが、戦国時代に現在の岡山県を統一した宇喜多氏は大規模な干拓事業を始める。江戸時代に入ると干拓は大規模になり1618年には児島が本土と陸続きとなった。

江戸時代の240年間で干拓された土地は約6800ヘクタールにもなる。明治時代になると士族の殖産事業として、オランダの技術者を招き干拓はさらに大規模化した。1963年まで続いた干拓工事で生まれた農地は約5500ヘクタールにも及ぶ。

もとが海だった干拓地は土が塩分を含み農作物にはまったく適さない土地だった。そこで、干拓地では塩抜きの溝や用水路が多数整備されることとなった。こうして、岡山県南部は全国でも屈指の用水路が張り巡らされたエリアになったのである。

ところが、20世紀後半に変化が起こる。大規模農地として開発されたエリアの都市化が進行したのである。高度成長期、減反政策で農業生産が鈍化する一方で、県南では工業化が進められ干拓地は農業地区に加えて工業地区も発展したエリアとなった。岡山市の南部は典型的で岡山市街地に次ぐ新たな都心にまで発展し住宅地が形成されるに至っている。