長らく用水路の危険性が矮小化されてきた
用水路に落ちる可能性よりも、普段の生活が不便になるほうが困るのはわかるが「柵があっても落ちる時は落ちますしね」と、どこか他人事なのはどうしてなのか。
この背景には、岡山人の独特の気質が見え隠れする。これまで筆者は出身地でもある岡山県に関する著書を何冊か出版している。その過程で多くの資料に触れているが、ほかの都道府県に比べて、多数の地域のゴシップ的な記録が郷土の歴史として書籍化されていることだ。
いわゆる「郷土史」に関する資料は、著者自身が住む地域の優れた点を強調したものが多い。過去の悲惨な事件や奇人変人の存在はなかったことにされがちだ。ところが、岡山県ではなぜか古来より、そんな地域の恥部をむしろポジティブなものとして記録してきた歴史家がやたらと多いのである。ネガティブな出来事でも「よその地域にはない珍しいこと」というわけである。
この事例が示すように、岡山県では用水路が危険なことまでも、地域の特性であり落ちなければ問題ないと捉えているのではあるまいか。口では「用水路は危険らしい」とはいっても、自分が落ちるまではネタ扱いしているというわけである。
これに加えて、岡山人は個人主義的な傾向が強いのに「人からどう見られるか」を気にするところがある。だから、用水路に転落し大事に至る人が増えた昨今までは、落ちても多少の怪我では救急車など呼ばずに這い上がってくる人が多かった。
怪我よりも「あの人は用水路に落ちたんで」「あんごうじゃ」と噂になるほうが一大事だったわけである。他人をネタにするのは大好きなくせに自分がネタにされるのは、たまったものではないというわけだ。これが、長らく用水路の危険性が矮小化されてきた理由である。
元来、岡山人は個人主義的な傾向が強い人が多数派だ。結果、各方面で我が道をいく多彩な人材を生み出しているのは事実である。でも、こんなところで個人主義的になっているのは、いかがなものか。