警察がナプキンや消毒液、化粧品を買い付けた

押し寄せる米兵たちのトラブル続きだった互楽荘は、約1週間で閉鎖に至った(*6)。代わって、戦前チャブ屋(外国人の船乗り用の「曖昧茶屋」=ひそかに売春も行う料理茶屋・宿の俗称)のあった大丸谷から本牧小港までを結ぶ地区に貸座敷9軒が開業し、174の業者が355人の「慰安婦」を集めて営業をした(*7)

米側も兵士の「慰安所」利用を禁止するのではなく、各「慰安所」を米憲兵が巡回し、性病予防対策が余念なく行われた。占領軍上陸とともに、被占領国女性を介した男性同士の「日米合作」が始まったのである。

当時復員軍人などで列車が混雑したため、警察は「慰安婦」の呼び寄せに際して、鉄道各駅に連絡のうえ募集人の「公務乗車証明書」および身分証明書を発給し、優先的に乗車ができるように便宜をはかっている(*8)。営業に必要な物資――布団・客用寝巻・タオル・ナプキン・脱脂綿・消毒液・化粧品などは、保安課が車を出して買い付けに行き、業者へ配給した。

「こんなよごれたからだで国の役に立つのなら」

一方、米第三艦隊が上陸した横須賀では、8月17日には安浦保健組合(私娼組合、88軒)と米ケ浜芸妓組合、翌18日には二業組合、柏木田遊郭組合、皆ケ作私娼組合の業者と芸娼妓が集められ、警察による「慰安所」開設のための説得が行われた。

業者と女性たちを前に横須賀署長・山本圀士は、「戦争に負けたいま、ここに上陸してくる米兵の気持ちを皆さんの力でやわらげていただきたいのです。このことが敗戦後の日本の平和に寄与するものと考えていただき、そこに生甲斐を見出だしてもらいたいのです(*9)」と壇上で言葉を詰まらせながら説得した。

保安課主任の遠藤保は、「〔横浜市の〕真金町にいた女たちが、こういうよごれた体で国の役に立つのなら、よろこんでやりましょうと言って、白百合会というのをつくって本当によくやってくれました。最初の2カ月位は涙の出るほど献身的にやってくれました(*10)」と書き留めている。「慰安所」をつくった側の男性の言葉や意図は資料から知り得るが、当事者である女性たち自身の言葉が残っていないのはまことに残念である。