小学生の頃からキャリアデザインを意識していた

簑原さんが短大を卒業してJASに就職したのは1986年4月。ちょうど男女雇用機会均等法が施行されるのと同時だった。

「航空会社に憧れたわけじゃなく、男女同一賃金で女性が活躍できそうな会社だと思って選びました。女性でも手に職を持て! 経済力をつけろ! と父に言われつづけ、短大では得意な英文科を受験せず、幼児教育を勉強して保母さんの資格を取りました。ただ、保母さんはいざというときの資格で、企業に就職するつもりでした。小学生の頃からキャリアデザインは意識していましたね」

撮影=市来朋久

勤務地の伊丹空港は、実家から通えた。「グランドホステス(グランドスタッフ)」と呼ばれる地上勤務の仕事は、航空法に約款、チェックインカウンターやゲートでの顧客対応をはじめとして覚えることが山ほどあった。

「入社した頃は教育の質が高くないうえに、先輩に何度も質問したら怒られ、挙げ句に間違った答えが返ってくることがたびたびでした。これではやってられないと、業務マニュアルを全部コピーして、家に持ち帰って夜な夜な勉強しました。先輩から何か質問されたら、即座に完璧な答えを返してやろうと(笑)」

86年はバブル経済の入り口でもある。好景気で忙しく働きながらもめちゃくちゃ遊ぶ。仕事も遊びもイケイケドンドンの時代だった。

職場婚で女性側が異動する慣習が納得できず、婚約を破棄

24歳の時に同じ職場の男性と婚約した。結婚後は同じ職場にいられない決まりがあり、どちらか異動になる。相手の男性が空港に残り、簑原さんが予約センターへ移ったらいいと言われた。男女同一賃金といいながら、女性のほうが当たり前のように異動させられる慣例にカチンときた。

「なんで私が異動せなあかんの。おかしいやん」と、納得がいかない簑原さんは婚約を破棄する。

社内恋愛が破局すると、心ない噂が飛び交う。ストレスから飲み歩き、深夜にタクシーで帰宅することが増えた。休日は疲れて家でグダグダしていた。