妻子の死の責任はあくまでも家康自身

しかし、家康が2人の処分を決めたのは、築山殿が武田と内通し、信康がそれに同調し、徳川の家臣団が分裂する危機にさえあったからだと考えられている。

そもそも、家康の家臣は武田に対して主戦論を唱える者が中心だった。それなのに妻子が武田と内通していては、まとまる家臣もまとまらない。そんな状況では、家康は妻子を処断するほかなかった。それが近年の通説で、家臣たちが築山殿と信康に同情し、彼らに死を強いた信長を恨む、という状況にはなりえなかっただろう。

築山殿の肖像(図版=西来院蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

それは家康に関しても同じである。妻子の死の責任はあくまでも家康自身にあり、信長を逆恨みするような話ではなかった。自身の妻子が年来の宿敵と内通していたら、同盟相手であり事実上の主君に対して申しわけが立つはずがない。家康には2人を罰するほかに、状況を打開する道はなかった。

事実、信康事件以後、家康と信長の関係が悪化したという記録はない。

むしろ「主従関係」を大切にしていた家康

たしかに、武田との最後の戦いでも、平山優氏が「家康は武田氏の討滅を達成する過程でも、織田信忠に忖度そんたくし、遠江や駿河での進軍を遅らせているし、信長の帰国に際しては家中を挙げての接待と心配りを行うなど、気が休まる時がなかったであろう」と記す状況ではあった(『徳川家康と武田勝頼』幻冬舎新書)。

しかし、こうして信長に付き従ったからこそ、家康は宿敵武田氏を滅ぼし、念願の駿河(静岡県東部)を領国にすることができたのだ。

この駿河について黒田基樹氏は、「家康が自力で計略したものではなく、『天下人』信長から与えられたものであった。このことは家康が、信長に従属する大名の立場になっていたこと、さらに領国を与えられたということで、信長とのあいだに主従関係があることを明確に示すものであった」と書く(『徳川家康の最新研究』朝日新書)。

逆にいえば、家康は領国を守り、さらに拡大するために、この「主従関係」を非常に重んじていたということである。