「容れ物」は逃げ場のない地獄
生前の孫は自分が乗ったフェリーのおもちゃをいつも持ち歩いていたという。船のおもちゃは孫にとっての「安心毛布(セキュリティ・ブランケット)」だったのだろう。言うまでもなく、これは保利が日頃から持ち運んでいたキャリーバッグと呼応している。
そして、それはまた、孫とフェリーをめぐるエピソードが映画本編から削除された理由の一端でもあるだろう。あまりにも物語の構造(対応関係)をはっきりさせすぎてしまうと観客に陳腐な印象を与えかねないからである。そこで伏見が語る具体的なエピソードを、画面上にわずかに映る折り紙の船に移し替えたというわけだ。映画監督としての是枝裕和の身上は、この絶妙なバランス感覚にある。
伏見が校長を務めている学校も容れ物である。劇中で最初に学校の外観が映し出される画面では、その直方体性が強調されている。しばしば学校と監獄は類似した施設として同列に論じられることがある。いずれも、外界から隔絶された場所で「収容者」が一般社会のルールに馴染めるように「教育」を施している【図3】。
社会に出ていくための準備をする場所でありながら、学校は独自の小宇宙を形成し、ときに子どもたちにきわめてローカルなルールを強いる。イジメや体罰などの問題が起こったときには、しばしばそれを隠蔽し、内々でことを収めようとする。そのとき、被害者にとって学校は、逃げ場のない地獄と化すのである。ただし、伏見は子どもや保護者の言い分を丸々受け入れている。じっさいには振るわれていないことを知っていながら保利の暴力を認め、彼を犠牲にすることで容れ物としての学校を守ろうとするのである。
廃電車に見る方舟のイメージ
同様に、子どもたちにとっては家庭もまた逃げ場のない場所になりかねない。家という物理的な空間が監獄のように機能する場合もあるし、家族との関係性において身動きが取れなくなってしまうこともある。
じっさい、湊は台風の日の朝に自宅を抜け出す。暴風雨から身を守ることのできる安全な場所を自らの意志で捨てるのである。向かう先は依里の家だ。そこは依里が囚われ、父親から暴力的なしつけを受けている場所である。
湊が訪ねた際、依里は父親によって浴槽に沈められており(父親の姿はすでにない)、依里の意識は朦朧としている。湊は浴槽から依里を救い出し、二人で廃線跡地へと向かう。そこには彼らが秘密基地として利用している廃電車がある。
直方体の廃電車は、学校や家庭に居心地の悪さを感じている彼らに、安心と安全を提供してくれる唯一の場所である。二人を乗せた電車は大雨が引き起こした土砂崩れに巻き込まれ、押し流されて横転してしまう。
洪水に見舞われた世界から彼らを保護する電車には、「方舟」のイメージが重ねられている。方舟とは、世界が生まれ変わるのを待つための容れ物=乗り物である。
はたして、台風が去り、湊と依里は太陽が戻ってきた明るい世界に降り立つ。二人は廃線となった鉄橋に向かって駆けていく。かつて彼らの行く手を遮っていた鉄柵は暴風雨によって取り払われている。二人にとっての障壁が、少なくともひとつ、この世界から消えたことになる。疾走する二人を捉えたショットは、非現実的なまでに美しい光に満たされている【図4】。あたかも彼らの前途を祝福するかのようであり、同時に「二人の未来よ、かくあれかし」という祈りにも似た光景に見える。