読み落としや読み間違いはないとするのは傲慢な読者
「あっ、ここは前回は読み落としていたな」と思うこと、「前に読んだ時よりも印象的な気がするぞ」と思うこと、そのひとつひとつによっても、その箇所には他の部分とは違った独特の重みづけが読者のなかの独自のネットワークにおいてされるようになります。この重みづけは、読み落としや失念という意図的には不可能な、その瞬間ごとの読者それぞれに固有の体験が可能にするものです。
再読の意義を知らないひとは、かつて読んだ本のなかの読み落としていた箇所や、読んだかもしれないけれど忘れてしまうような印象しか持たなかった箇所について、この独特な重みづけを加えることを軽視しているか、まったく理解していないのでしょう。
ときどき、「この本を読んだけれど、知っていることばかり書いてあった」という感想を口にするひとがいます。本当にそのとおりである可能性も否めませんが、しかしそれが本当であるかを判定できるひとはいません。単に、読み落としや、読み間違いの可能性を自分で否定しているだけの傲慢な態度に陥っている可能性もあるのです。
やはり再読だけが創造的な読書である
そんなことは無理かもしれない、という疑いを前提にしながら、でももしかしたら可能かもしれないという正反対の期待をもち続けること。これもやはりとてもストレスフルな話ですが、しかし読書の根本にかかわる必須の姿勢です。
なぜなら、ある書物のある箇所において「そこに書かれていること」は「それが書かれているその場所」には当然ながら存在していません。「象」とか「林檎」と書いてあるところには、象や林檎は存在しません。そこにそれが存在しないことが自明でありながら、その存在を想定することができるということが読書を可能にしています。
あらゆる宗教や神話、物語、そして擬似科学や偽の歴史書が存在しうるのは、書物にこのような反実仮想の機能があるからです。書物と書物のあいだのネットワークも、知識と概念のネットワークも、読者が「それがあるかもしれない」と期待することでしか存在しえない、とても儚いものだということは告白しておく必要があるでしょう。
再読という行為が創造的なのは、読書の不可能性と不可分で表裏一体の考え方です。そこにないものを想像してしまうこと。読書に不可欠な想像のプロセスを組み合わせ、そこに存在しないものたちのネットワークを組み替えていくこと。それの繰り返しが再読なのです。