高度経済成長に取り残された商店街の黒歴史
「寂れていましたよ。日曜日でもアーケードの下で鬼ごっことか、キャッチボールとかができた。お店の迷惑を顧みずにね。まねき猫がいる『ふれあい広場』では皆で野球もやっていました」
大須商店街がどん底時代だった1960年代から70年代半ばまでの様子を、堀田さんはこう振り返る。
大須は、大須観音と万松寺のある寺町として、江戸時代から栄えていた。明治時代には芝居小屋や映画館、遊郭などもでき、一大歓楽街として発展した。戦後、焼け野原になった大須にはヤミ市が開かれ、多くのよそ者が集まってきて商売を始めた。以降、とりわけ家具と衣料品の店が増えていったほか、映画館や劇場なども再建されて、大須はかつての活気を取り戻した。
ところが、カラーテレビの普及などで映画館が次々と閉館。さらに、大須の北側わずか1キロの場所にある栄の都市開発が進み、大手百貨店や地下街などの商業施設が次々と誕生したため、これまで大須に来ていた客が流れていった。
追い打ちをかけるように、1964年に大須と栄の間に道幅100メートルの若宮大通が整備されたことで完全に分断。大須は陸の孤島となり、一気に衰退する。
住み込みの従業員が一気に消えた
当然のように、客足が途絶えた商店街の店々はビジネスが立ち行かなくなり、苦境に立たされる。
「一番わかりやすいのは、従業員がどんどん減っていったことです。昔の大須商店街はどんなに小さいお店でも5人、10人と住み込みで働いていました。婦人服屋だったうちも4人くらい女性従業員がいましたが、一人減り、二人減り、最後はほぼ家族だけになりました」
当時中学生だった堀田さんが覚えているのは、隣の寿司屋にも板前修行の若者が10人ほどいて、歳も近いことからよく面倒を見てもらっていた。自宅2階の物干し場から、隣の2階の住み込み部屋に直接訪問しては遊んでいたそうだ。
また、夏場になると商店街の横丁では、長テーブルと椅子を出してきて涼んでいる住民などがたくさんいる光景が当たり前だった。そうした日常がなくなっていくことに堀田さんは寂しさを覚えた。