京都人同士のやり取りはスポーツに似ている

イケズのような言葉のやり取りはちょっとスポーツにも似ているのかもしれません。京都人同士で、一見ほのぼのとやわらかに見えるけれども、実は中にカミソリが仕込んであるボールを投げ合って遊んでいる。手だれの京都人同士なら、これが成立します。

けれども、慣れていないよその人は、これを打ち返すことも難しいし、うっかり素手で取ったりしたら血まみれになってしまう。だから最初に京都人は、イケズが分かる人かどうかを試すようなことをするのでしょう。この人は打ち返せない人だから手加減しないと、ということを知るために。

なので、打ち返せなくても、まったく問題はないし、京都人が「ぷっ」と思うだけ。よその人は「あらあら、この人はぶさいくやねえ」と思われるだけです。

反対に、もしもともと勘がよくて、打ち返すことができると、「なかなかやらはるやん」と尊敬してもらえるかもしれませんね。そして、もっとすごいボールが来るかも……。

ただ、たまに京都人にも下手な人がいて、打ち返そうとしたのに取りこぼしてしまったりだとか、相手にぶつけてしまったということになるような人もいるそうです。時には、そういうぶさいくな京都人が東京人をはじめ、ほかの土地の人に何か言ってきたりすることも。

でも、それはお互いさま。そのときは、よその人であるこっちが「クスッ」とすればいいのであって、別にどうということはないのです。相手が自滅したなぁというような感じで、「ひそかに楽しめばいい」のだそうです。

イケズにも「反射神経」が重要

ここで、言葉のやり取りをスポーツにたとえましたが、実は脳の中で言語の運用をつかさどる言語野の一部は、運動野と一部共有される領域にあります。さらに、「暗喩の理解(まさに京都らしい感じですね)」など、より高次の言語の運用を担う領域は、空間認知や道具の使用をつかさどっている領域でもあります。

中野信子『エレガントな毒の吐き方 脳科学と京都人に学ぶ「言いにくいことを賢く伝える」技術』(日経BP)

また、鋭い言葉を言われたときに切られたり、殴られたりしたような身体感覚を覚えることもありますよね。この高次な言語理解の領域は、体性感覚野の近傍にあるので、言語による痛みが身体感覚としてとらえられるというのも不自然な話とはいえないのではないかと考えられます。

これらのことを考え合わせると、イケズを理解するのはこの高次な言語の運用を担う部分である可能性があります。イケズを言い合っているときの京都人の脳を撮像することができれば、この領域が活性化していることがひょっとしたら見えるかもしれません。

実際、言葉によるやり取りが当意即妙で上手な人のことを、しばしば「反射神経がいい」という言い方をします。これは、運動野と言語野の関係などが知られる前から、感覚的、慣用的に、私たちが使ってきた言い回しだろうと思います。

このように、イケズの感覚と、スポーツで使う感覚とは、脳機能から見ても類似であるのではないかと考えることができるのです。イケズを会話の中で上手に使える人は、スポーツでも、それなりのトレーニングを積めば結構なレベルまでいくんだろうな、としばしば妄想してしまいます。

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