家康が酒井を嫌いだったとしか見えない

もっとも、最近では、これは『三河物語』の著者の大久保忠教(通称・大久保彦左衛門)が家康や信康をかばった記述で、事実とは異なるとみられている。

『当代記』や『安土日記』などの史料が精査された結果、いまでは信康の処罰は信長の命令ではなく、家康のほうから信長に申請し、好きなようにしてよいとの了解を得た帰結であることが、ほぼ明らかになっている。

家康が究極の判断をせざるをえなくなったのは、信康や築山殿に、家康がまだ必死に争っていた武田氏とつながっての謀反の疑いが生じたためだと考えられている。

だが、信康の自死を決めたのが家康だったとしても、信長に尋問された忠次が、信康の不行状を認めたこと自体が否定されたわけではない。五徳の手紙を読んで驚いた信長が忠次を問いただした、という話は『松平記』にもある。

こちらでは後日、忠次だけでなく大久保忠世も呼び出したことになっているが、いずれにせよ、忠次が信長の前で、信康の不利になる発言をした可能性は高いと言わざるをえない。

そうである以上、本郷和人氏が「家康が酒井を嫌いだったとしか見えない。(中略)信康腹切事件が一番の原因ではないだろうか」(『徳川家康という人』河出新書)と語るのにも、一理あると思える。

なぜ忠次は嫌われるような行為をしたのか

忠次にすれば、信長に詰問された以上、下手にウソをついてあとでバレたほうが、自分自身ばかりか徳川家が負う傷が大きいと考えたことだろう。忠次の立場を考えれば、信康の不行状を認めたのもやむを得ないように思える。

だが、家康にすれば、忠次が余計なことを言わなければ、信康と築山殿のとった行動が許しがたいものであったとしても、命まで奪う必要はなかった――。そんな思いが募らなかったはずがない。

それなのに、家康はそんな忠次を、どうして重用しつづけたのか。信康事件のしばらく前にまでさかのぼって考えてみたい。