連鎖する毒

町田さんは、彼に「きみの親の言動はやくざのようだ」と言われたことをきっかけに、「このままではいけない」と思い立ち、親子関係についての書籍を読みあさり、懸命に学んだ。その中で、「毒親の親は毒親」という言葉を何度も目にしてきたという。

「私にとって両親は“加害者”ですが、昔は両親も私と同じ“被害者”だったのだろうと今は考えています。両親はどちらも、偏った家庭で育ったようなので……」

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父方の祖父は自衛官、祖母は専業主婦だった。自衛官の祖父は、幼かった父をパチンコに連れて行くこともあった。祖母は3人姉妹の末っ子で、とても甘やかされて育ったせいか、金遣いが荒かった。祖母は父親をかわいがっていたが、父自身を見ないような溺愛ぶりが嫌だったようだ。父親は実家に帰ることを避けていた。

母方の祖父は、母親にとって継父だった。祖母が妊娠中に実父は病気で亡くなり、母親が3歳ごろに祖母は再婚していた。母親いわく、継父は箸の持ち方など、マナーに厳しい人で、祖母は「ジャイアンのお母さんのような人」だったという。なんでも、祖母が怒ると洗濯板で叩かれるため、怒られる兆しがあると、母親は靴を持って窓から逃げた。冬でも朝まで家の中に入れてもらえないこともあり、飼い犬と一緒に犬小屋の中で夜を明かした。部屋を散らかしたままにすると、散らかしてあるものを片っ端から窓から投げ捨てられた。思春期になると、母親はある女性アイドルを好きになったが、祖母はそれを執拗にバカにしたという。

やがて結婚し、町田さんが生まれ、町田さんが祖母の憧れの高校に合格すると、「鳶が鷹を生んだ!」と言って喜んだ。

「当時は私もうれしくて気付きませんでしたが。今思えば、母に対してかなりデリカシーのない発言ですよね? 祖母は祖父に対しても当たりがキツくて、孫の私から見ても祖父をバカにしたような発言がよくありました」

母方の祖母は再婚後、男の子(母親にとっての異父弟)を産んだが、20代後半ごろからひきこもりになり、40代で自死した。祖父(母親の継父)はとても悲しんだが、祖母は「早く忘れたい」と言って、祖父を冷たくあしらっていた。

「両親も私と同じ“被害者”だったと分かったからといって、両親を助けることは私の役割ではありません。それこそ『共依存』の関係に戻ってしまうので、今は『関わらない』関係がベストだと思っています。両親と離れてみたら、『手のかかる子育て』が終わったような不思議な感覚があります。自分のことだけ集中して生きられることが、『こんなに楽なんだ』と感じています。きっと、ようやく『自立』できたのだと思います」