死を悼むため国民の歌舞音曲は停止する
岩倉具視以降、1945年に実施された載仁親王(閑院宮)まで21名の国葬が、天皇の「特旨」によって執り行われた。
厳格な基準があったわけではないが、太政官制で太政大臣・左右大臣を務めた人物、旧薩摩・長州藩主、元老などが選ばれている。1885年に内閣制度が導入されてからは、閣議決定の後、首相から天皇に上奏し、裁可(天皇による決裁)を経て執行する手続きが取られた。内閣によって葬儀掛が組織され、計画・実施の中心的役割を果たした。
国葬は、回数を重ねる中で形式を整えてゆく。「功臣」の死を悼むために天皇は政務に就かない(廃朝)、国民は歌舞音曲を停止して静粛にする、死刑執行は停止するといったことも定型化する。私は、このような国葬の形式がおおよそ整ったのは、1891年の三条実美の国葬だと考えている。
国葬とは天皇から「功臣」に賜るもの
三条の場合には、葬儀の現場東京から離れた町村・神社・学校などでも追悼のための儀式が実施された。また、メディアが発達したことを背景に、新聞などを通じて三条の死が「功臣」たるにふさわしい業績・美談とともに広められてゆく。全国各地の人びとは、三条の追悼行事に参加することで、「功臣」が支えたとされる天皇や国家を鮮明に意識することになる。
近世までの民衆は、自分が日本人であるという自己認識はもっていなかった。そもそも近世に、日本という国家は存在しない。大多数の人びとは、将軍や大名に対する従属意識はあっても、天皇が何者なのかはよく知らない。
明治政府は、そうした人びとを「国民」に変え、国家の構成員としなくてはならなかった。その政策の柱の一つとして、天皇は国家統合の象徴として演出され、万世一系の元首として振る舞った。天皇から「功臣」に賜る国葬は、そうした国民国家の建設のさなかに、国家統合のための文化装置として機能することが期待されて成立した。