史料の矛盾はあるが偶発的な衝突が戦の発端となった

信長公記』では、堀江城攻撃中に、徳川軍が出陣してきたと記されていた。しかし「当代記」は、都田から三方原に進軍した武田軍に、徳川軍の物見が遭遇したことで合戦になった、と記していた。両者が伝える内容は、微妙に矛盾している。

しかし『信長公記』の内容も、「大沢基胤合戦注文」の存在を踏まえれば、基本的には事実を伝えているとみなされる。それらの記載について整合的な解釈をこころみれば、『信長公記』での、徳川軍の出陣は、武田軍が三方原に転進してきたことをうけてのことと理解し、「当代記」での、都田から三方原に進んだ、というのは、途中の堀江城攻撃を省略したと理解すれば、解決できるように思う。

歌川芳虎『元亀三年十二月味方ヶ原戦争之図』(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

そして武田軍が堀江城から三方原に転進したのは、徳川軍が出陣してきたからではなく、堀江城攻略を中断して、徳川軍を牽制するため、あるいは奥三河に進軍するため、と考えられるのではないか。平山優氏(『徳川家康と武田信玄』)が検討したこの地域の交通状況をもとにすると、堀江城から奥三河に向かうには、一旦、三方原に出る必要があったと考えられ、三方原への転進は決して不自然な行動ではなかった。

堀江城攻撃の中止の理由はわからないが、徳川軍に出陣の気配がみられたことによるかもしれない。ここでは三方原合戦が生じる経緯については、以上のように考えておきたい。

1000人以上の戦死者を出した家康はお家存亡の危機に

合戦は徳川軍の大敗で、「当代記」では、両軍の軍勢数を武田軍は2万人、徳川軍は8000人であったとし、徳川軍では1000人余が戦死したという。この戦死者数は、信玄が朝倉義景に戦勝を報せた際に、「千余人討ち補り」と述べているのにも一致している。徳川方の大敗であったことは間違いない。

しかもこれほどの大敗は、家康にとって、まさに最初で最後の生涯に一度だけのことであった。そのため家康を神格化した江戸時代に、この大敗についても美化されて、『三河物語』の内容が生み出されたのであろう。なおまたこの時の大敗を教訓とするために描かれたものとされるものに、いわゆる「顰像(しかみぞう)」がある。しかしこれについても近年、江戸時代後期に作成されたもので、三方原合戦との関わりを示す根拠もないことが、明らかになっている(原史彦「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」)。