小説を読んで得た感情を「想像力トレ」に生かす
他にも、ドイツの作家パトリック・ジュースキントの『香水 ある人殺しの物語』という小説があります。18世紀のパリを舞台にして、次々と少女を殺してはその芳香を我がものとし、あらゆる人を魅了させる香水を創り出した男の物語です。
人殺しは究極の悪です。それでも、この殺人者の気持ちに寄り添わせてしまうところが、小説の力です。自分が生きている社会の倫理観なども忘れて、究極の香りを作るためには致し方ないのではないかと、小説を読んでいる間は思わせてしまうわけです。
小説家は、あり得ないことを書きながらも、そこにリアリティを持たせる技を持っています。ですから、私たちが入り込んだ時に、その世界がリアルに迫ってきて、実際にその世界の中で生きているかのように思わせてくれます。だから小説は面白いわけです。
小説を読むと、さまざまな感情が湧き起こりますが、それは文字情報により得た客観的なものではもはやありません。想像力を働かすことで得た感情は、フィクションや幻ではなく、まさに主観的でリアルなものです。
小説を読んで湧き起こった感情を、そのまま現実世界に持ち込むのは危険ですので、想像力の幅を広げる「想像力トレ」として捉えたいものです。
他者の理解に最適な太宰治の『駈込み訴え』
他者を理解するためには、対人想像力を発揮して「自分の考えと異なる立場から見てみる」わけですが、その訓練に最適のテキストの一つが、太宰治の『駈込み訴え』です。インターネット上の電子図書館「青空文庫」でも読むことができますので、読まれたことのない人はぜひ読んでみてください。
『駈込み訴え』とは、
「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ」
と「旦那さま」に対して、「あの人」を「ずたずたに切りさいなんで、殺して下さい」
と訴える男の独白です。
彼は自分の師であり主である「あの人」のことを、他の弟子たちとは較べものにならないほど愛している。だから「あの人」のために何の見返りも求めずに献身してきた。それなのに、「あの人」は自分の無報酬の純粋の愛情を受け取ってくれない。それどころか嫌われている、と思い込んでいるのです。
だから、かわいさ余って憎さ百倍になって、「旦那さま」に居場所を教え、「あの人」を売ってしまうという話です。
この訴えた男の正体は、「裏切り者」の代名詞、イエスの十二使徒の一人、イスカリオテのユダであり、「あの人」とはイエスのことです。
太宰は独白体でこの時のユダの心情を仔細に描き切りました。実際には、ユダの言葉というのは残っていませんが、この『駈込み訴え』のユダのイエスに対する愛憎の吐露を読むと、ユダの魂が太宰に憑依して、まるで本当にユダが独白したかのように感じるのです。
太宰が描くユダは単なる裏切り者ではなく、そこにはイエスに対する真実の愛情を見ることができます。その独白は真に迫っており、読者は「ユダが裏切った気持ちも分かる」となるのです。「この人は、本当にイエスに愛されたかったんだろうなあ」と、ユダの切なさに共感してしまいます。
『駈込み訴え』は短い作品ですが、読めば「裏切り者」という通説であるユダ観が変わります。
なぜこの『駈込み訴え』を紹介したかというと、ユダの思いを知ることによって、悪者だと思い込んでいたユダを理解できるようになることを、自身で体験してみてほしいからです。
「ユダはたしかに裏切ったから悪い。けれども、ユダの思いを理解できないかというと、理解できる」というところまで、私たちは太宰のおかげで到達できるようになるわけです。
いわゆる善悪で言えば、ユダという悪の象徴みたいなものでも、太宰という一流のストーリーテラーのおかげで、私たちにもその気持ちが理解できるようになるのです。