頭を下げる屈辱を無関係な他人に向ける

コンビニの店員がまさに、昼間のわたしのようにペコペコ頭を下げるとき、わたしは怒りが収まるどころか「責任者を呼べ!」と荒れ狂った。配達先の客や職場の上司からされていて、心の底から嫌だと思っている、まさにその同じ態度をわたしは他人に向けていたのである。

沼田和也『街の牧師 祈りといのち』(晶文社)

ツイッターにヘイトスピーチこそ書かなかったけれども、いつ書いてもおかしくない精神状態であった。にこにこして相手のご機嫌をうかがい、相手が不快な表情を浮かべれば萎縮し、ひたすら頭を下げ続ける。しかし「やらされている」と思っているので怒りがこみあげ、屈辱を覚え、そのどうしようもない思いを、こんどは無関係な他人に向ける。けっきょく、わたしが前任地で幼稚園の職員に激昂し、閉鎖病棟に入院したことの一要因もそれであった。わたしはプロフェッショナルであること、サービス業であることの意味を完全に履き違えていたのである。

「誰に対しても開かれた教会」を目指したはずだった。けれどもじっさいは「わたしが誰からも叱られない教会」を目指していたのだ。わたしは人から拒絶されることが怖かったのである。人から嫌われることを、なによりも恐れていたのだ。教会に来るすべての人々から好かれたい。相手はわたしのことを内心どう思っているのか知りたい。相手の思いをわたしの思いどおりにしたい。わたしは神ではなく自分自身のことを思いながら、仕事をしていたのである。

「とりあえずの謝罪」こそが相手を怒らせる

世のなかの職業人が謝罪の意思表示をする際、誰もがわたしのような理由でそうしているとは思わない。ただ、好感度を保ちたいとか、嫌われてはおしまいだとかいう意識が、社会全体に蔓延しているように感じられるのである。だが、謝罪してどうしたいのか、そもそもなにを悪いと思っているのかが見えず、とにかく謝って好感度を回復しようという態度だけが透けて見えるとき、謝られた相手はますます苛立ちを募らせる。それはわたしが体験してきたことと同じである。

教会で、誰かがわたしに腹を立てる。わたしは即座に頭を下げる。するとなおさら相手は怒るのだ。当時は「わたしがこんなに謝っているのに、赦してくれないのか? なんてわがままな人だ」と憤っていたが、そうではなかった。相手はわたしにとりあえず謝って欲しいのではなかったのだ。わたしが具体的に、今後どのように態度を改めるのか。これからはどうするつもりなのか。相手はわたしに、そこをはっきり意思表示して欲しかっただけなのである。