長嶋さんと野村監督は、現役時代の実績を自慢しない
王さんが巨人の監督に就いて2年目か3年目だったと記憶しているが、サンケイスポーツに「鹿取義隆ばかり使うな」という批判記事を書いたら、担当記者が呼ばれて「そもそも江本って何勝したピッチャーだ」と、あきらかに現役時代の実績を背景にした言い方をした。
その報告を記者から受けたとき、「あなたもピッチャーで入ったんじゃなかったっけ?」と思ったけど、僕のようなザコが口答えできるお方じゃないのでがまんした。
ところが長嶋さんと野村監督は、絶対にそういう論理でものを言わない。
だから監督としての生命線においてふたりは共通しているし、ふたりとも偉大だと思う。エリートと叩き上げ。水と油のようなふたりだが、ある角度から見ると同類なのだ。
野球エリートじゃない僕に目をかけてくれた
東映では1勝もできなかった僕は、南海では10勝以上の勝ち星を挙げ続けた。1972年:16勝13敗、1973年:12勝14敗、1974年:13勝12敗、1975年:11勝14敗、野村監督の予言が的中したわけだ。
のちに“野村再生工場”という言葉が生まれるほど、野村監督は選手を生き返らせるのがうまい。“江本は再生第一号”などと呼ばれて、「野村監督にどういう指導を受けたんですか?」とよく訊かれた。
野村監督が僕に言ったことといえば、「俺が受けたら10勝以上するぞ」「先にエース番号をつけておけや」。そして、「ええか、ワシが出したサインを考えながら投げろ」。本当に16勝という結果がついてきたのだ。
ところで、野村監督が僕を南海に引っ張ってくれたのは、僕の野球歴に感じるものがあってのことらしい。
警察官の家庭に生まれた僕は、野村監督のような特殊な環境で育ったわけではない。だけど高校のときに甲子園の出場停止を経験して、大学のときはほとんど使われず、熊谷組でもだめで、ドラフト外でカツカツで拾われてプロ野球に入った。そういう野球エリートじゃないところに、野村監督は自分と共通するものを感じて目をかけてくれたのだろう。
叩き上げだけど、実際はすごく繊細なタイプ
野村監督自身、テスト生で入団して二軍時代に一度クビを言い渡された経験があるぐらいだから、エリートどころかバリバリの叩き上げだ。
それに加えて貧乏な生い立ち。それで終わればまだよかったんだろうけど、プロの世界に入って世話になった監督の鶴岡一人さんは、広瀬叔功さんや杉浦忠さんばかりかわいがり、少しも自分をほめてくれようとしない。三冠王を獲っても「なにが三冠王じゃ。チームに本当に貢献したのは杉浦だけじゃ」と言われたそうだ。