“野村スコープ”はもっともらしく解説しているだけ
話は変わるが、1980年代に野村監督がサンケイスポーツ紙上で考案し、テレビの解説で注目を集めた“野村スコープ”を憶えているだろうか。
画面上でストライクゾーンを9分割して、配球を解説したり予測したりするシステムだが、視覚的にわかりやすく、とても好評でテレビ朝日から社長賞ももらったすぐれもの。
「社長賞は三つの番組しか受賞したことがないんや。野村スコープは『ドラえもん』と肩を並べたんや」と自慢する野村監督のうれしそうな顔がなつかしい。
野村スコープがすぐれものであることは認めるが、残念なことに解説の内容はあまりすぐれてはいなかった。
例えば、スライダーを勝負球とするピッチャーが、1ボール2ストライクと追い込んだ場面。アナウンサーが「次はなにを投げますかねえ?」と訊ねる。野村監督は外角低めに印をつけて、ちょっと間があって、ぼそぼそっと「スライダーでしょうね」と言う。するとピッチャーは本当に外角にスライダーを投げる。アナウンサーはびっくりしたように「野村さんの言う通り、外角にスライダーが来ましたねえ。やっぱり野村さんはすごいですねえ」と。
だけどこの場面で、真ん中にまっすぐを投げるピッチャーはいない。「次は真ん中のまっすぐでしょう」と解説する人はまずいない。だから多少なりとも野球を知っている人なら、当たり前の話を野村スコープなるものを使って、もっともらしく解説しているだけだとわかる。
野村克也と落合博満の決定的な違い
野村監督はすごいという先入観があって、なおかつあの口調で言うから、もっともらしく聞こえるだけということなのだ。ただ話術ということでいえば、人が誘導されるような論理の組み方をするのが野村監督はうまい。その内容は、実は非常に単純なものなのだけれど。
同じような話の組み立てをするのが落合博満だ。だから野村監督と落合は気が合う。気が合うからといって、ふたりが似たタイプの監督かといえば、それは違う。“現役時代の実績を自慢するか否か”という監督としての生命線において、ふたりは真逆に位置している。
野村監督は現役時代の実績を自慢しない。目の前の現実しか口にしない。僕はそこが偉大だと思う。
ところが落合は、選手とコーチを見下ろして、自分の理論が絶対正しいと言い放つ。俺の考えを否定するなら、俺の現役時代の記録を抜いてから言えと浴びせる。これが落合のやり方だ。僕はそこがどうもうなずけない。
意外だと思うかもしれないが、王さんも自分の実績を背景にしている。